誤用と転用の間

 言葉の誤用というのは、なかなかに興味深い。間違っている、嫌です駄目ですいけません、と簡単にはねつけるのも、まあ、いいのだが、じゃあその人はなぜ誤用したのか? と考えてみるのも一興だと思う。

 例えば、「すべからく」という言葉がある。本来は、「〜べし」で受けるべきなのだが、「〜だ」や「〜する」で受けているのを見かけることがある。例えば、「男はすべからく助平だ」なんていうふうに(「男はすべからく助平であるべし」なら問題ないのだが)。

 元々「すべからく」は「当然(〜べし)」という意味だ。しかし、「男はすべからく助平だ」という言い方は、「すべからく」を「全て」という意味に捉えているのだろう。おそらく、「すべ」の二音に引っかかったのだ。もしそうなら、引っかかった人達の語感は、「全からく」(正しくは「須く」)。「て」の字がないが、ああまあ、いいじゃないかそのくらいは、お互い忙しいのだし、ということなのかもしれない。

「檄を飛ばす」も、本来の意味とは違った使い方を見かける。元々は、信義を主張して大勢の人の決起を促す、というような意味だが(「檄」は「檄文」。昔の中国で、大勢に決起呼びかけの手紙を送ったらしい)、個人に活を入れる意味に使っている例がよくある。「監督からの檄に応えて、ヒットを打った」というふうに。個人に同報メールを送るとか、ひとりで回状をまわすくらい変な話ではある。

 想像だが、これは「檄」の字が「激」に似ているところから勘違いが生まれたんではないか。「感激」「激励」などの言葉の印象が、「檄を飛ばす」に流れ込んだのではないかと思う。もちろん似ているなら同じ意味に使っていいというものではない。悠子さんの名前は、両親が「怒りっぽい人になるように」と願ってつけたわけではないのだ。

 ただし、活を入れる意味での「檄を飛ばす」は今、誤用かどうか微妙な位置にあるらしい。手元の広辞苑(第五版)には「また、元気のない者に刺激を与えて活気づける」という説明も載っていた。新聞によっては認めている校閲部もあるようだ。誤用から転用に移り変わるグレーゾーンにあるのかもしれない。

 いささか理屈に走って言えば、言葉の誤用も延々と続けて、大勢の人が慣れてしまえば誤用でなくなる。転用に変わる。誤用はあくまで誤用です、一切認めません、という態度もまあ、あろうが、そういう態度しかないならば、我々はいまだに「いづれのおんときにかあるらむ」などと平安朝の都言葉を使っていなければなるまい。いや、平安朝の都言葉だって、その前の時代から見れば、誤用だらけに違いない。

 元々は誤用だったんじゃないかとわたしがギワクのマナザシで眺めている言葉に、「申込み」がある。今では、お金をいただく側が「お申込みください」などと言っても別に問題にならないが、「申す」という言い方は元々、謙譲表現だろう(例えば、目上の人に「申し上げる」などと言う)。それが、だんだんと「丁寧な感じの言い回し」というふうにも捉えられるようになり、丁寧語になり、「申込み」などという言い方が出てきたのだと想像する。昔の人も、結構、いい加減だったんではないか。違うかな。

「男はすべからく助平だ」というふうに「すべからく」を「全て」と捉える表現も、大勢の人が慣れてきて、いずれは誤用でなくなるときが来るのかもしれない。それとも、すでに誤用でなくなってきているのか。ああ、ゆれ動く男心。今段階では、ま、ちょっと気にはなるんだが。