事情を飲む込むとき

 子どもがものを覚えるというのは不思議なものだなぁ、と思う。言葉を覚える、すなわち、まわりが何やら口をもぐもぐさせて発する音が意味と結びつくんだ、と理解するのも不思議だし、そもそも意味というものがこの世にあるのだと理解するのが不思議だ。
 あるいは、物事の事情を知るというのもなかなかもって奥深いものがある。
 テレビのドラマ――戦隊ものやら特撮ものやらのドラマを、幼児はおそらく絵空事ではなく、本当にそこで起きているものだと思って見ているのだろう。しかし、だんだんとあれは嘘の出来事、演技、お芝居だということがわかってくる。この「だんだん」かるという過程が、おれのような年になると思い出せない。いや、「だんだん」と書いたけれども、本当にだんだんだったのか、それともあるとき突然天啓のごとく理解したのかも思い出せない。
 おれは幼児の時分、時代劇を見ていて、最後の大立ち回りで主人公にばんばん斬られるその他大勢の敵方侍達を、本当に斬られているのだ、と思っていた。つまり、毎週、ドラマのたびに大量に死人が出ているのだ、と。そうして、なぜこの人たちは斬られるのだろう、と考えて、「貧乏だからに違いない」と結論した。お金と引き換えに斬られるのだ、家族のためなのだろう、と理解していた。我ながら、頭がよかったのか悪かったのかよくわからない。
 しかし、今ではもちろん、ああいう大立ち回りは嘘の殺人なのだと知っている。ハテ、その「嘘」ということをどういうふうに理解したのか。だんだんと理解したのか(その「だんだん」という途中の状態を想像してみようとしてもうまくいかない)、それともあるとき突然事情を飲み込んで「ユーレカ!」と叫んで町内を全裸で走り回ったのか。
 今となっては思い出せない。幼児の物の感じ方、考え方、理解の仕方というものには大人とは別の状況、状態がありそうな気もする。