類型化

 先週、雑な思考について書いた。民衆とか、日本人、右翼左翼というくくり方で語るのは雑に過ぎるんじゃないかという話だ。
 で、なぜにそんな雑なくくり方での議論がはびこるかについてつらつら考えてみた。そうして、類型化ということに思い至った。
 類型化というのはグループ分けの一種である。タイプ分けといってもいい。いろいろな違いにいったん眼をつぶって、共通の属性で物事をくくり、共通の属性のものには何らかの共通の性質があると認識することである。
 言語というものがそもそも類型化なくしては成り立たないところがあって、例えば、地面からにょきにょきと生えている例の物体を「木」とまとめてしまう。そうして、木というものは地面から上に向かって生えるものだ、などと共通の特徴をくっつけてしまう。何らかの事情で横に伸びた木だって世の中にはあるだろうが、そういう個別の事情や性質にはあまり眼をくれない。
 でまあ、そういう言語の機能のせいもあるし、また、類型化をするのを好む傾きも人間にはあるように思う。最初に書いた民衆、日本人、右翼左翼というくくりにいつのまにかくっついた特徴(民衆は偉い、とか、日本人は勤勉だとか。必ずしも証明されている必要はない)というのはこの類型化の結果だろう。あるいは、血液型で性格を判断するとか、占星術なんていうのも類型化好みのせいではびこっているのだと思う。
 先にも書いたように類型化というのは言語の機能のひとつであるし、我々の思考というのは類型化を利用して行っているところもある。類型化を細かく何段階にも分けて上手に思考する人もいる。一方で、非常に大ざっぱに類型化をして、後は特徴を決めつけてよしとする雑な人もいる。前者を「分解派」と呼び、後者を「ざっくり派」と呼んでもいいかもしれない。
 ちょっと余談になるが、おれは仕事柄、人の書いた企画書を見ることが多い。パワーポイントの雑な企画書(パワーポイントは雑に作りたくなる機能が豊富である)なんかにはいかにもざっくり派的なものがよくあって、「御社の強みはものづくり」「弊社の強みはプロモーション」「御社+弊社=WinWinの関係」なんていうようなあまりに雑なまとめを見かけたりする。本当は、そのものづくりのどの部分のどういう課題に対して、プロモーションのどういう手法とプロセスを活用すると、どういう効果が期待できるか、という合致具合を細かに見ることが大切なのに。
 また、分解派、ざっくり派とは別に、「ひだひだ派」とでも呼びたくなる性向の人もいる。物事の細かな部分、ディテールをなぞって味わうことに喜びを覚え、あまり総合してどうの、という話に興味がない人である。論理的というより感覚的で、文学や音楽の楽しみがたいがいひだひだ的である。おれは落語を好んでよく聞くけれども、あれも噺の言い回し、演者のちょっとした口調、会場の雰囲気などを微細に味わうと、ひだひだ派向きである。
 ひだひだ派の人々は物事の微細なひだひだの違いを感じ取る、あるいは表現することに喜びを覚えるから、文章にしてまとめを書いたとしても、あくまで収まりをつけるためのものに過ぎないことが多そうである。一方で、ざっくり派の人は結論づけて「何々はこうである」という答えを出すことに快感を覚えるから――というか、場合によっては快感を覚えたいがために強引に結論を出すから、まあ、乱暴である。しかし、乱暴な考え方は乱暴な人たちに受けるし、何しろ手っ取り早く快感を得たり、怒りを覚えたりしたい人たちが多いものだから、随分とはびこっている。分解派の人たちは類型の細分化とその特徴づけを間違えなければ有意義なことを教えてくれそうだが、何しろ話が長くて複雑になりがちなので、その言うことを理解するには多少の我慢が必要になる。「日本人には大和魂がある」などと乱暴にまとめたほうが一般には受けやすいのかもしれない。
 まあ、分解派、ざっくり派、ひだひだ派などと書いたが、同じ人が時と場合と対象により、変わることはある。仕事では分解派だが、外交の話になるといきなりざっくり派となり、プロ野球を見るときはひだひだ派だ、とか。このおれにしてからが、分解派、ざっくり派、ひだひだ派などというざっくりした類型化を今ここでしてしまい、今日はどうやらざっくり派のようである。