死後の年齢問題

 クリント・イーストウッド監督の「ヒアアフター」を見た。

 

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 見るのは、たぶん3度目だと思う。イーストウッド監督の作品にほとんどハズレはないのだが、これもいい。

 イーストウッド監督の作品には運命を独力で切り開く主人公が描かれることが多い。しかし、「ヒアアフター」では、主人公たちがもがいて動くところもあるのだが、むしろ人から人への思いと温かな救いのほうがより大きく描かれているように思う。前半は暗いのだが、後半はやわらかい。彼の作品には珍しい。

 見た後は快い満足感に浸ったのだが、おれが考えたのは随分とくだらない話だ。

ヒアアフター」では死後の世界がテーマとして扱われる。主人公のひとりは人とふれることによって死後の世界を見ることができる。別の主人公は臨死体験をして、一瞬、死後の世界を覗いた。

 そこで描かれる死後の世界はぼんやりとしているのだが、白い光の中に大勢の人が立っている。どうやら死んだ時の年齢でいるらしい。

 ということは・・・超高齢化が進む日本の死後の世界はおじいちゃんおばあちゃんだらけなのだろうか?

 さらには、これは前にも書いたことがあるのだが、おれの祖母は九十代で亡くなった。祖父は太平洋戦争のとき、南方で三十代で亡くなった。相当に長い時間をかけて仏壇に祈るのだが、祖母の日課であった。

 ということは祖母が亡くなったとき、三十代の祖父は死後の世界で九十の婆さんに「妻です。お会いしたかった。毎日、仏壇で祈ってました!」などと告白されるのだろうか。

 ううむ。祖父としてもいささか困るのではないか。

 いや、よい作品に対して、申し訳ないのだが、おれはどうもアホウなことを考えてしまう。

 まあ、実際のところ、おれはあんまり死後の世界には興味がない。あるともないともわからないし、おれなんぞにわかるわけがないと思っている。逝けばわかるさ、なんぞと大束に考えている。 

英文日本語文の構造と翻訳の難しさ

 今、アメリカの作家ウィリアム・フォークナーの小説を読んでいる。

 最初に読んだ「八月の光」は割りに読みやすかったのだが、今読んでいる「アブサロム、アブサロム!」は読みにくい文が多く、苦戦気味である。

 何が読みにくいって、一文が長く、読んでいるうちにおれの頭の処理能力が追いつかなくなってしまうのだ。

 たとえば、適当に拾った文を転記してみよう。

私にはボンがヘンリーを、予告も警告もせずに、仮定より事実が先だとして、次第に典雅な遊びの界隈へと誘い込み、ゆっくりとその表面にさらしていく様子が目に浮かぶーーいくらか風変わりで、いくらか女性的にけばけばしく、それゆえヘンリーには華美で罪深く見える建物や、汗水たらして働く人間が綿花農場を横切ってゆっくりと少しずつ進んで手に入れるかわりに、蒸気船の積荷の量によって測られるような、巨大で、しかも安易に手に入れた富を創造させる豪奢なものや、無数の車輪の華やかなきらめきなどにさらしていく様子が目に見える、

 最後は「、」で切っているが、普通の文なら「。」で終わるところだろう。文章のリズムをつくるためにそうしているのだと思う。

 この文が読みにくい理由はふたつあるだろう。

 まず長い。文の構造が複雑である。おそらく原文をアメリカ人が読んでも、長くて読みにくいと感じるだろう。

 もうひとつは、英文と日本語文の構造の違いである。

 ご案内の通り、英文と日本語文では語順が大きく異なる。英文でたとえば:

主語A - 述語A - 目的語 - 関係代名詞 - 主語B - 述語B

 なんていう文があったとして、これを日本語文にすると:

主語B - 述語B- 目的語 - 主語A - 述語A

 という順番になる。

 短い文ならそれほど読みにくくないが、フォークナーの先の引用文のように、関係代名詞などで修飾 - 非修飾の関係がいくつもつらなると、文全体の意味の統御を成す「主語A - 述語A」がようやく最後に現れるので、「あれ? おれは今、何について読まされているのか?」とわからなくなってくる。

 フォークナーの文はおそらく原文でもわかりにくいのだろうが、それでも日本語の翻訳で読むよりは構造がわかりやすく、流れに沿って理解できるものになっている可能性はある。まあ、原文読んだわけではないので、わからないけれど。

 翻訳者が悪いわけではなく、これはもう、日本語という述語が最後に出てくる文型の宿命みたいなものだと思う。

 ともあれ、「アブサロム、アブサロム!」は読み下すのが大変だ。それでも話の筋は面白く、楽しみながら読んでいる。

痒みの描写

 おれはアトピー体質で、特に夏と冬にひどくなる。

 夏は汗をかくので、どうやらその汗の中の物質が皮膚に悪い反応を起こさせるらしい。己の体内からの物質で己の皮膚がやられるとはどういうことか、と思う。冬は乾燥するので、皮膚に隙間ができ(いわゆるドライスキン)、そこから外の悪い物質が入り込むらしい。ともあれ往生する。

 強い痒みというのはどうにも我慢のできないもので、「掻いちゃダメ」とはよく言われるし、わかってもいるのだけれども、どうにも我慢できないところがある。ええいままよ、と掻きむしると、これが刹那的に気持ちいいのなんの。快感を担当する脳内の箇所が刺激されるらしい。よくできてるんだか、悪くできてるんだか。

 ペルー出身の作家バルガス=ジョサの「世界終末戦争」という小説の中に、痒みにかんする描写が出てくる。ブラジルの荒野に宗教王国を作ろうとした集団に対し、ブラジル軍が攻め寄せるのだが、敵のゲリラ攻撃もあって苦戦し、膠着状態に置かれるなかでの話だ。病院のていもなしてない野戦病院で。引用する。

誰かが足もとで泣いているのでわれに返る。すすり泣くほかの患者たちとは違って、この患者は恥入ってでもいるかのように音をたてずに泣いている。老兵で、もうかゆくてがまんできないというのだ。

「引っかいちまったよ、先生さん」かれは小声で言う。「化膿しようとどうしようともうかまわんさ」

 この、化膿しようとどうしようともうかまわんさ、という心持ち、アトピーの強い痒みに襲われて掻くときと同じだ。掻いちゃダメ、とは理性の言葉であって、強い痒みの前ではそう理性を保てるものではない。

 この後の描写がすごい。

やつら野蛮人どもが用いる忌まわしい武器にやられたひとりだ。共和国兵士のかなりの数がカカレマ種の蟻に皮膚を噛みちぎられているのだ。皮膚を食いやぶって蕁麻疹を起こし、激しい痛みをひき起こすこの獰猛な蟻が、夜が涼しくなるにつれてすみかから出てきて眠っている人間に襲いかかるというのは、最初のうちは避けようのない自然現象だろうと思われていた。(略)

 胸の様子をのぞこうと老兵士のシャツをまくると、きのうの紫色のかさぶたが今日は赤いしみとなって、そのなかで小さな粒が激しくうごめいているのが見える。

 ひぃ。書き写していて、痒みがこっちにまで移ってきた。カイカイカイカイカイカイカイカイ。

 

動物のセクシーボイス

 昨日、自転車に乗っていたら急な雨にやられた。

 結構な土砂降りだったのだが、しばらくすると晴れた。途端に、アブラゼミがそこらじゅうでジィジィ鳴き始めた。いかにも夏という感じがする。

 アブラゼミで鳴くのはオスだけで、あの声でメスに己の存在をアピールするらしい。メスからすると、「あらん、いい声!」とあのジィジィにメロメロになるのだろうか。いわば、ジィジィはアブラゼミ・オスのセクシーボイスである。

 同じセクシーボイスでも、ウグイスの春のホーホケキョなんていうのはいかにも美しい。セクシーボイスだと思って聞いてみると、少しばかり色気があるような気もする。

 反対に、サカリのついた猫の声は人間からするとギャアギャアうるさい。あれのどこがセクシーボイスなのだと思うが、まあ、猫には猫の感じ方があるのだろう。アブラゼミやウグイスと違って、メスがオスにアピールすることが多いらしい。オスも同じような声で返すことがあって、「ギャアギャア」「ギャアギャア、ニャオーン」とやかましい愛のささやき(でもないが)もあったものである。

 人間も猫のような声で求愛しあったら、随分と面白いのだが。公園で、バーで、キャバクラで、「ギャアギャアッ!」と鳴き交わすのだ。色気も何もあったものではない。

興奮した議論

 安倍元首相が銃撃されて亡くなった。衝撃的ニュースである。

 こういうことが起きると、興奮してあれやこれやと議論する人が大勢出てくる。そうしたい気持ちも、まあ、わかる。興奮すると何かしないでいられなくなるのだろう。

 では、そうした論説なり議論なりが的を得ているかというと、なかなかそうはいかず、極論や単純化や乱暴な話が多い。

 日本の政治家が襲撃された事件のリストを見てみる。

 

過去には現役首相暗殺も 国内の主な政治家襲撃事件 - 産経ニュース

 

 政治家が襲われたことは過去にもあった。平均すると、5、6年に一度というところか。それほどは多くないという印象だ。今回の安倍元首相襲撃事件は長崎市長銃撃事件以来、15年ぶりである。

 今回の事件についていうと、容疑者の供述した動機はわかったようなわからないような、である。

 

安倍氏銃撃、特定の団体に恨みと容疑者供述 県警が銃数丁押収 | ロイター

 

 容疑者の言葉の通りとすれば、政治的主張や企図も、利害関係もなさそうで、かなり特殊なケースなのではないか。テロとか民主主義云々とはあまり関係なさそうに見える。

 興奮した議論は後々、あんまり役に立たないことが多い。

赤ちゃんの見る夢

 赤ん坊が抱っこ紐で母親の体にぴたっとくっついて眠っている姿を見るのはいいものだ。

 先日も、そんな親子とすれちがって、ふと「赤ちゃんも夢を見るのだろうか?」と思った。

 赤ちゃんは一日の半分以上を寝て過ごすが、その間が無の世界なのか、夢を見ているのか、興味深いところだ。

 もし夢を見ているとしたら、どんな夢を見るのだろうか。

 夢というのは自分が体験したこと(想像したことも含む)が変形して出てくるものだが、赤ちゃんは生まれてから体験したことが少ない。夢に見るとしたら、母親のおっぱいを吸っている夢か、ベビーベッドから見上げる天井か、くるまったタオルの絵柄か、漏らしたおしっこの不快感か、抱っこ紐で張り付いた父母の胸か。

 生まれてからの体験が少ないと、どうしてもバリエーションが限られてくるだろうけど、実際、どんな夢を見ているのだろうか。

 まさか・・・前世を夢に見る、なんてことはないだろうな。

イタい単純化

 人間はつい単純化してしまいがちな生き物であって、おそらくは複雑なものを複雑なまま捉えるということがとても難しいからだろう。

 学問方面の「理論」というのもおそらくは単純化のためである(というのまとめ方も単純化だ)。理論によって単純化することによって、理解しやすくなったり、理論を展開しやすくなったりする。

 しかしまあ、単純化が全てバンザイ! というわけにはいかなくて、中には「これはイタい」と思わせる単純化や、時に害悪ではないか、という単純化もある。そうした例をいくつか挙げてみたい。

 

1. 日本人は農耕民族

 ワハハ。いきなり出た。

 どういうわけか、こういう捉え方をする人は少なくない。「日本人は農耕民族だから〇〇する」。その対として、「欧米人は狩猟民族だから〇〇する」というふうに話を展開することが多い。ネットで「農耕民族」と検索してみれば、この手の話はわんさと出てくる。

 しかし、イタい、というか、間抜けな捉え方である。

 まず日本人が農耕民族だとしたら、漁師さんをどう考えればよいのだろう。マタギはどうなるのか。

 まあ、昔は百姓の割合が多かったので日本人は農耕民族だった、と百歩ゆずって認めるとしても、中国人は、韓国人は、タイ人は、インド人は、どうなるのだろう。おれの知る限り、彼らも農耕をする人が多かったはずだ。としたら、彼らと日本人は同じ性向を持っていることになる。持っていたっていいが、世界中は農耕民族だらけで、とても農耕民族だから云々という話はできないんじゃないか。

 欧米人が狩猟民族という話もどこから出てきたんだろう。そりゃまあ、二千年前、三千年前は知らないが、おれの知っている限り、フランス人だって、ドイツ人だって、イギリス人だって、イタリア人だって、随分昔から農耕しているぞ。

 

2. 「海外では」

 さっきの農耕民族バナシにも似ているところがあるんだが、簡単に「海外では〜」と言い出す人がいる。

 海外、と言ってもたいていは欧米の、それも先進国と言われる国の話であって、中国も、韓国も、タイも、ラオスも、インドネシアも、フィリピンも、モンゴルも、パキスタンも、バングラディシュも、インドも、ネパールも、イランも、アフガニスタンも、アラブ首長国連邦も、サウジアラビアも、イラクも、エジプトも、チュニジアも、モロッコも、スーダンも、ケニアも、コンゴも、ナイジェリアも、セネガルも、南アフリカも、アンゴラも、メキシコも、キューバも、パナマも、コロンビアも、ブラジルも、エクアドルも、ペルーも、チリも、アルゼンチンも、ベネズエラも、「海外」に含まれることはない。

 日本は島国であるからして、文字通りにとらえれば、日本以外の国は全て「海外」になるはずなんだが、なぜだか、「海外では〜」と言うと、欧米の先進国を指してしまう。黒船以来の呪縛だろうか。

 しかも、欧米先進国といったって、いろいろなはずなんだけどな。

 

3. 国際金融資本黒幕論

 何か歴史的な事件が起きると、「国際金融資本(しばしばユダヤ系金融資本とも呼ばれる)が黒幕である」というストーリーが飛び出す。なぜか結構な人たちを惹きつけるようだ。

 国際金融資本なるものがなんらかの活動をしているのはまあ、そうなんだろうが、「黒幕」という決定的な働きをしているのか、あるいはできるのかは甚だ疑問である。

 世の中にはいろんな勢力がいて、それぞれの思惑でさまざまな活動をしている。影響力の強い勢力もあれば、そうでもない勢力もある。それらが互いに働きかけをしあって、ちょうどコックリさんを大勢でやるようにして動いているのが世の中だろう。

 それを、「国際金融資本が黒幕である」で片付けるのはいかにも単純化であり、乱暴である。もっと言うと、間抜けである。

 

 他にもいろいろとイタい単純化はあるんだが、今日はここまでにしておこう。

 あ、マルクスさんの「階級闘争」というのもえらい単純化ですね。昔は随分と惹きつけられた人もいたみたいだが、単純化したものを真に受けるとひどい目に合うといういい例だと思う。