おれは動物愛護について距離を置いて眺めていて、少し疑念を抱いている。
動物愛護の人々は「いのち」という表現をよく使う。「命」ではなく、「いのち」という書き方をする。
少し前に秋田でスーパーに押し入った(という言い方がよく合う)クマが殺された事件があった。役所には動物愛護方面の人々から苦情が相次いだと言う。おそらく「いのち派」の人々なのだろう。
クマに「いのち」という言葉を当ててみると、何か随分と重々しい感じになる。
殺すことがとても罪深いように見えるから不思議である。
ブタでやるとどうだろう。
これはこれで切ない感じがする。飼われているブタの将来が予想されるからだろう。肉を目的とする家畜には整理しきれない複雑な感情を呼び起こされるからかもしれない。酢豚はおいしいけど。
イワシでやってみる。
なかなかに複雑な感情を呼び起こす。いのちって何だろうと思わせるからか。ちょっと現代美術みたいでもある。
もっとも、クマやブタに対する感情とはちょっと違うようにも思う。哺乳類と魚類では命の重さというか、感情の抱き方が違うのかもしれない。「いのち」は平等ではない。
動物を食べることについて罪悪感を覚えて、ビーガンになる人もいる。しかし、動物の命と植物の命は違うのだろうか。まあ、何も食べないでいると死んでしまうから、そのあたりは適当に折り合いをつけるのかもしれないが。
やってみると、「いのち」という言葉の重さにはただならぬものがある。「いのち」の重さではない。「いのち」と言う言葉の重さである。現代の日本においては「いのち」という言葉は呪術的力を持つのかもしれない。
動物愛護の人々が「いのち」という言葉をふりかざすのは、ある種の呪術にかかっているからではないか。では、いのちなるものにどういう実態があるのかというと、考えればよくわからなくなる。
こういうのは約束事の問題なので、人によって捉え方が違う。なかなか難しい。
おれはペット目線やわくわく動物ランドで育まれたような動物愛護には賛成できないけど(なお、動物保護と動物愛護は違う)。