終戦から現在までのほうが明治維新から終戦までより長い

今年は戦後81年である。81年も経つともはや「戦後」と言っていいのかどうかもわからなくなる。

前にも書いた覚えがあるが、終戦の1945年から81年前というと1864年。なんと明治維新より前で、新撰組が池田屋を襲撃したり、長州が京都御所の蛤御門を攻撃したり、英仏米蘭が長州の下関を砲撃したりしていた。

戦後から現在までもいろいろなことがあったが、明治維新前から終戦までの間のほうが激動という感じはする。

81年も経つと戦争の記憶自体はほぼ失われる。直接の記憶が残るのが小学生くらいからだとすると、そういう記憶を残している人はすでに80代後半以上である。戦場で直接戦った人は今100歳くらいであろう。

おれは1966年生まれで、終戦から20年ほど経って生まれた。太平洋戦争(大東亜戦争)のイメージというと、本もあるけれども、もっぱら映画で作られたように思う。おれが子供の頃にはまだ戦争についての映画は多く、たいがいは勇ましいが悲壮であったり、ただただ悲惨であったりした。悲壮、悲惨、飢餓、焼け尽くし、痛い、苦しいというのが戦争のイメージとして強く残っている。

大人になってから生まれる前の戦争映画も見るようになった。映画人には出征して実際に戦ったり、悲惨な目にあった人も多く、そうした実体験が映画にも色濃く反映されていたように思う。たいがいは赤紙で徴兵された人たちだから、兵隊、よくて下士官としての前線の生々しいイメージが描かれた。

その後、何しろ81年も経ってしまったから、この頃の戦争映画は実感に乏しく(直接体験していないから当然である)、変に夢やロマンとして戦争を扱うものが多くなったように思う。ひどいのになると「愛する者のために戦う」などと個人的な事情で戦場に行ったりする。

今、20歳の人が生まれたのは2006年あたりである。戦争から61年経って生まれた。さっき書いたようにおれは1966年生まれだから61年前というと1905年。なんと日露戦争で旅順で大苦戦したり、日本海海戦をしたりしていた頃だ。つまり、年数だけでいうと今の20歳の人にとっての太平洋戦争とはおれにとっての日露戦争くらい昔ということになる。

それはまあ、いろいろと戦争についての受け止め方が変わってくるわけである。

良い単純化、悪い単純化

日本人は何々を大切にするとか、何々を嫌うとか、あるいは同様に〇〇人は何々を大切にするとか、何々を嫌うとかいう話を往々にして聞く。

よくて平均値、多くの場合は何となくの印象について語っているのだろうが(印象なので、正しいとは限らない)、随分と単純化した話だなあと思う。

日本人とくくったっていろいろである。おれのような馬鹿もいれば、中村哲さんのような立派な人もいる。電車内で粗暴な振る舞いをする人もいれば、人に優しく、気遣いをする人だっている。同様なことは〇〇人とひとくくりにされる人たちにも言える。アメリカ人だっていろいろだし、中国人だっていろいろだし、アラブ人だっていろいろだし、インド人だっていろいろだし、イギリス人だっていろいろだし、韓国人だっていろいろだし、コロンビア人だっていろいろだし、オーストラリア人だっていろいろだし、ブルキナファソ人だっていろいろだし、ロシア人だっていろいろである。とても性格のいい人、すぐに仲良くなれるような人もいれば、なるべく近づかないようにしておこうと思いたくなるような人だっている。

おれは単純化には良い単純化と悪い単純化があると思っている。

悪い単純化は先に書いた「〇〇人は〜」と語る話の類で、ひどいのになると「外国人は〜」とまとめてしまうことすらある。世界には82億人の外国人がいるのに、それをまとめてしまう。馬鹿ではないかとすらおれは思う。

良い単純化というのは物事を正しくわかりやすく整理するために行うもので、おそらく学問の世界なぞはこれがなくては話が進まないのではないかと思う。たとえば、「戦国時代は経済が活性化した時代である」「腸内細菌は我々の健康を支えている」「市場は人々の欲望の調整機能を持つ」なんていうのはいずれも単純化であって、仔細に見ればもっと複雑でいろんな要素が含まれるのだが、まずは大きな理解をするために単純化が行われる。確率や統計的な分布で捉えるべきところをいったんは単純化して話を進めている。これがなくては人間の知というのは進まなかっただろう。

しかし、悪い単純化が世の中にはびこっていて、人々の判断を歪ませている。「日本人は農耕民族である」とか、「日本の得意なものづくり」なんていうもはや神話ではないかと思うようなものもある。中でもひどい単純化は「◯◯人論」「外国人ひとくくり」である。

まあ、単純化には良い単純化と悪い単純化がある、なんていうのも単純化した話であって、実際には良いと悪いの間はグラデーションになっていて、話をする背景によっても良い悪いは変わったりするのだが。

とにかく、「◯◯人論」とか、「外国人は〜」なんていう話を聞いたら、悪い単純化ではないかとまず疑ってかかったほうがよいとおれは思っている。

日本国憲法をダメにする方法

復古主義的な(正しくは幻想的復古主義の)高市政権になってから、またぞろ憲法方面が騒がしくなっている。

下等遊民のおれとしては真面目に憲法について語る知識も用意も意欲もない。憲法を使って遊んでみたいと思う。

ムツカしい言葉で「無化」というが、重みのある言葉をダメにする、というのはなかなか面白いものだ。要はリッパなものをダメにすることで引きずり落として喜ぶという卑怯者の遊びなんだが、おれは卑怯者なのでしょうがない。

憲法をダメにするのは簡単で、各条文に「良かれ悪しかれ、」とつけるだけでよい。例えば、第一条。

 

第一条 良かれ悪しかれ、天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

 

わはははは。ザマーミロ。

まあ、実際、天皇が日本国の象徴であるのは良かれ悪しかれではある。

憲法改正というと毎度問題になる第九条の第二項。

 

良かれ悪しかれ、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、良かれ悪しかれ、これを認めない。

 

九条のもやもや感がさらにもやもやする。

第十三条。

 

第十三条 良かれ悪しかれ、すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、良かれ悪しかれ、最大の尊重を必要とする。

 

憲法をダメにする方法はもうひとつあって、「人間だもの。」とつけてしまえばよい。

 

第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。人間だもの。

2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。人間だもの。

 

第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。人間だもの。

 

第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。人間だもの。

 

意図に反して、何だかよい文章になってしまった。あいだみつを、恐るべし。

 

鬼畜なのは誰か

その季節らしい映画を見るというのはなかなかよいものだ。

おれの場合、夏というと「砂の器」「二十四の瞳」「ディア・ドクター」あたりを見たくなる。もっとも、毎年のように見ているとだんだん飽きてはくる。

野村芳太郎監督の「鬼畜」も夏らしい映画だ。松本清張の原作。夏らしいと言っても、この映画の夏は爽快な夏ではなく、ひたすらにじとーっと暑苦しいイヤーな夏である。

 

鬼畜

鬼畜

  • 岩下 志麻
Amazon

 

真夏の印刷工場が舞台。冷房なんぞない時代、あるいは冷房なんぞ買えない町工場である。

以下、ネタバレあり、というかあらすじ。

主人公の緒方拳は工場の社長。といっても、零細企業なので妻の岩下志麻と職工の蟹江敬三の三人しか働き手はいない。

印刷工場で暑くて胸をはだけた岩下志麻の色っぽいの、なんの。劣情を催すというか、見る者に劣情を催させる演出である。岩下志麻はいつもイラついていて、緒方拳に当たり散らしている。この岩下志麻の尋常でない色っぽさだけでも、この映画を見る価値はある。

緒方拳は気が弱いくせに愛人(小川真由美)がいて、3人も子供を産ませている。

小川真由美はこの3人の子供を緒方拳のもとに置いて、どこかへ逐電してしまう。

突然、3人の子供の面倒を見させられることになった岩下志麻は当然、イラつきにイラつく。そして子供たちを虐待する。一番衝撃的なのは、お腹が空いたという末っ子の口に無理やりご飯を詰め込むシーンで、子供は火がついたように泣く。実際、このシーンを撮った後、末っ子役の子は岩下志麻の顔を見ると泣いて怖がるようになったそうな。

この末っ子は結局、栄養不良のせいか何かで衰弱死してしまう。

残ったふたりの子供をつれて緒方拳は旅に出る。二番目の女の子を東京タワーに置き去りにし、長男も毒殺しようとするが、失敗する。最後は能登半島の岸壁(松本清張作品で毎度お馴染み)から突き落とす。

「鬼畜」というタイトル通りで、大人の主要な登場人物全てが鬼畜である。子供を見殺しにし、置き去りにし、崖から突き落とした緒方拳はもちろん、鬼畜。もっとも、気の小ささから子供を何とか手なづけようとしたりして、鬼畜と呼ぶにはあまりに弱い。

子供たちを虐待する岩下志麻も鬼畜。子供を緒方拳のもとに置いて逃げた小川真由美も鬼畜。虐待を知りながら、知らんぷりしている職工の蟹江敬三も鬼畜。

しかし、誰が一番鬼畜かといえば、岩下志麻に、幼児の口に飯を突っ込ませた野村芳太郎監督かもしれない。

いやはや、救われない。

気の弱いおれは怖くて、夏の映画なのに夏に見ることができない。秋、冬、春にも見ることができないが。

しかし、面白い映画ではあるのだ。そう感じるおれも鬼畜だな。

Da Ya Think I'm Sexy?

今年は蝉の鳴き声が少ないなー、と思って昨日とある川縁を自転車で走ったら、川端の並木から蝉の大合唱であった。どうやらおれは夏をぼんやり過ごしていたか、あまり蝉のいないところで過ごしていたらしい。

蝉というのはキチガイではないか、という話もあって、確かにあの大音量で喚き散らすのはいささか常軌を逸の字ではある。

あの鳴き声というのは実はオスがメスを惹きつけるためのものだそうで、メスの蝉からするとあれがセクシーに聞こえるようだ。

たとえば、アブラゼミ。

youtu.beこれがアブラゼミのメスにはセクシーなのだ。

youtu.beこれがクマゼミのメスにはセクシーなのだ。

求愛のために鳴く動物というのは多い。

たとえば、ウグイス。あのホーホケキョも我々には風流に聞こえるけれども、実は求愛の声だそうだ。

youtu.beウグイスのメスにはセクシーなのだ。

もっとも、ウグイスのホーホケキョはナワバリを主張する意味もあるのだそうで、風流に聞こえて、実は闘争的でもある。

猫はメスも求愛の声を出す。いわゆる「サカリ」の声である。

youtu.beこれが猫のオスにはセクシーに聞こえるのだ。

人間もサカリの声を持っていたら、どんなだっただろう。それこそ盛り場でギャーギャーわめいたりして、随分と面白かったろうし、随分と違った社会になっていたのではないか。

ロック三大バカ女コーラス曲

突然だが、ロックにはバカ女コーラスとでも言うべき演奏がある。バカ女が集団になって、コケティッシュに唄うものだ。

おれの好きなバカ女コーラス曲を3つ挙げてみたい。

 

第三位 フィッシュボーン「Naz-Tee May'en」

youtu.beフィッシュボーンは1979年にアメリカのロサンゼルスで結成された黒人のロックバンド。中学の同級生の集まりで、1985年に十代でデビューした。おれは大好きだ。

「Naz-Tee May'en」は彼らの1991年のアルバム「リアリティ・オブ・マイ・サラウンディング」に収められている。

冒頭から黒人の女性コーラスと男性コーラスの掛け合いで実に楽しい。スパイク・リーの初期の映画で描かれたようなアメリカの大都市の黒人コミュティを感じさせる(スパイク・リーの映画はニューヨークが舞台だけど)。

こういうタイトだが弾力性のあるリズムはなかなか日本人では出せない。コーラスや早口言葉のようなチャント(?)のリズム感覚も格好よく、子供の頃から練り込んできた話術や唄いの感覚のように感じる。終盤のチアリーディングっぽい女性コーラスのバカっぽさも素敵だ。

 

第二位 ローリング・ストーンズ「Where The Boys Go」

youtu.beストーンズには数々の名曲がある一方で、B級のロックンロール曲もたくさんある。おれは彼らのB級のロックンロール曲が好きだ。「Where The Boys Go」は典型的なB級ロックンロール。1980年の「エモーショナル・レスキュー」に収められている。

バカ女コーラスは最後に出てくる。「And the girls all know」というコーラスが実にバカっぽくて素敵だ。実にコケティッシュ。

 

第一位 オフスプリング「Pretty Fly (For A White Guy) 」

youtu.beオフスプリングの大ヒット曲。1998年の「アメリカーナ」所収。

頭からこれぞバカ女コーラスの「Give it to me, baby.」が繰り広げられ、たまらんものがある。なんだろう、この手の男を誘うようなムチムチプリンプリンなアメリカ独特の唄い回しは。一種の文化遺産かもしれない。

 

バカ女コーラスと書いたけれども、もちろん、女がバカだとか、歌っているのがバカな女たちだと言いたいわけではない。バカっぽさを演じるのが素敵だと言いたいのだ。

ロック、あるいはロックンロールはバカっぽさ、バカになれる楽しさから始まった。だから、当時(1950年代)の「良識ある人々」は眉をひそめたし、当時の若者たちはパパやママがいい顔しなくてもバカになる楽しさの誘惑に負けて踊った(今見ると実におとなしいものだが)。

しかし、1960年代になるとロックの表現方法、表現力は広がり、それにつれて「真面目な」あるいは「辛気臭い」曲も増えていった。

それはそれでいいのだが、おれはロックのバカっぽさが好きだ。バカ女コーラスはそんなロックの尾てい骨のようなものだと思う。バカになるのはサイコーだ。

動物童話の功罪

ここ数年、クマの出没や被害に関するニュースが時々出てくる。

もちろん、昔からクマによる被害というのはあって、中には人間が非常に惨たらしい殺され方や食われ方をしたケースもある。

動物愛護の観点からクマ側に立つ人というのもいて、駆除した役所に抗議の電話をかけたりして、迷惑がられる。全般的にはそういう人たちの評判はよろしくなく、ここぞとばかりに悪口を言われたりする。おれも割と悪口を言いたくなるクチだ。

そもそもおれは動物愛護というのがあまりピンと来なくて、あまり同感や共感ができない。野生動物保護のほうはまあ、わかる。保護と愛護はちょっと違うだろうと思っている。

クマを愛すべきものとする感覚はなんなのだろうか。もしかすると、動物童話や動物ドラマからの影響が大きいのではないか、などと思う。森のクマさん的な何かだ。

動物童話はまあ、子供への情操教育の手段としてはいいのだろう。しかし、大人になってもその感覚を引きずっているのはどうなのか。クマを「クマさん」と捉えるような感覚のことだ。

試しに最近のクマに関するニュースのタイトルをもじって、クマさん的なものにしてみよう。

雫石町がクマを溺れさせ駆除 岩手県から「配慮が必要」と注意(岩手日報)

雫石町がクマさんを溺れさせ駆除 岩手県から「配慮が必要」と注意

 

佐野の路上でクマ目撃(下野新聞)

佐野の路上でクマさん目撃

 

「馬のマチ」の放牧地にクマ出没!馬が"騒ぐ姿"目撃の牧場主が110番→通報中にクマは山へ_体長約1.5mのクマ1頭(北海道ニュースUHB)

「馬のマチ」の放牧地にクマさん出没!馬が"騒ぐ姿"目撃の牧場主が110番→通報中にクマさんは山へ_体長約1.5mのクマさん1頭

動物愛護の人々の感覚というのは後者の「クマさん」的な感覚が強いのではないか。動物愛護の人と深く話し込んだことがないのでよくわからないか。

人間の人間らしさを人間性と呼ぶのなら、クマのクマらしさはクマ性と呼べるだろう。餌が少なくなって街に出てくるのもクマ性だし、人間を襲うのもクマ性である。

クマを動物童話のクマさんのような感覚で捉えている人はクマのクマ性を無視しており、クマに対して大変に失礼だと思う。