「いのち」なる表現

 おれは動物愛護について距離を置いて眺めていて、少し疑念を抱いている。

 動物愛護の人々は「いのち」という表現をよく使う。「命」ではなく、「いのち」という書き方をする。

 少し前に秋田でスーパーに押し入った(という言い方がよく合う)クマが殺された事件があった。役所には動物愛護方面の人々から苦情が相次いだと言う。おそらく「いのち派」の人々なのだろう。

 クマに「いのち」という言葉を当ててみると、何か随分と重々しい感じになる。

Jean-noël Lafargue, FAL, via Wikimedia Commons

 殺すことがとても罪深いように見えるから不思議である。

 ブタでやるとどうだろう。

KSRE Photo, CC BY 2.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/2.0>, via Wikimedia Commons

 これはこれで切ない感じがする。飼われているブタの将来が予想されるからだろう。肉を目的とする家畜には整理しきれない複雑な感情を呼び起こされるからかもしれない。酢豚はおいしいけど。

 イワシでやってみる。

Joegoauk Goa, CC BY-SA 2.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で

 なかなかに複雑な感情を呼び起こす。いのちって何だろうと思わせるからか。ちょっと現代美術みたいでもある。

 もっとも、クマやブタに対する感情とはちょっと違うようにも思う。哺乳類と魚類では命の重さというか、感情の抱き方が違うのかもしれない。「いのち」は平等ではない。

 動物を食べることについて罪悪感を覚えて、ビーガンになる人もいる。しかし、動物の命と植物の命は違うのだろうか。まあ、何も食べないでいると死んでしまうから、そのあたりは適当に折り合いをつけるのかもしれないが。

中國農村復興聯合委員會, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

 やってみると、「いのち」という言葉の重さにはただならぬものがある。「いのち」の重さではない。「いのち」と言う言葉の重さである。現代の日本においては「いのち」という言葉は呪術的力を持つのかもしれない。

 動物愛護の人々が「いのち」という言葉をふりかざすのは、ある種の呪術にかかっているからではないか。では、いのちなるものにどういう実態があるのかというと、考えればよくわからなくなる。

 こういうのは約束事の問題なので、人によって捉え方が違う。なかなか難しい。

 おれはペット目線やわくわく動物ランドで育まれたような動物愛護には賛成できないけど(なお、動物保護と動物愛護は違う)。

カッコよい小僧

 歌舞伎の登場人物に弁天小僧というのがいて、いい名前をつけたものだなと思う。

 娘に化けて大店を相手に一芝居打ち、バレたら居直って、片肌脱ぐ。肩には見事な彫り物。威勢のいい啖呵を切る。いや、カッコいい。河竹黙阿弥はちょっと悪いイナセなキャラクターをつくったものだなと思う。

 弁天さまのように美しい女性に見えるから弁天小僧。やはりこれは弁天だからいいのであって、大黒小僧では小槌をふりまわしそうだし、恵比寿小僧では釣竿に鯛を抱えて何しに大店に来たのかわからない。毘沙門小僧は武闘派であろう。布袋小僧では痴愚の如しだし、福禄寿小僧、寿老人小僧では、めでたくはあるかもしれないが、謎すぎる。

 一応は実在の人物として鼠小僧というのはいる。その伝で名前を考えるなら、狐小僧、鼬小僧なんていうのはいけそうだ。しかし、狸小僧では間抜けそうだし、亀小僧、猪小僧というのいけない。小僧はシュッとして俊敏そうな痩せ型がいいのかしら。

イギリスの食文化には何があるのか(ないのか)

 YouTubeで、まりんぬさんというイギリス在住の方の動画を見ている。

 イギリスの食べ物についての話が多く、面白い。

 たとえば、イギリス人の人気ランチ・トップ3を取り上げたこの動画。特に第二位は衝撃的である。

youtu.be

 動画のなかにあるように、イギリス人は自分の毎日のランチに飽きている。飽きているのに、なぜか変化を持たせようとしないようだ。イギリス人気質なのだろうか。

 日本でもイギリスの飯といえばよく出てくるのが、フィッシュ&チップスである。日本でも食べられる店があり、まずくはないが、すぐに食べ飽きてしまう(それも食べている途中でだ)。本場イギリスのフィッシュ&チップスもシンプルだ。

youtu.be

 量が多くて、やはり食べている途中で食べ飽きてしまいそうだ。食材をもう少し増やすなどして、変化をつけることは考えないのだろうか(日本ならパセリか何か、緑系の彩をつけるところだ)。

 最も衝撃的だったのはこの動画。トーストサンドイッチ。

youtu.be

 見ていて気づくのは、さっきも書いたが、食材の少なさである。サンドイッチなら、たとえばチーズとパン(とバター)。フィッシュ&チップスは魚のフライとフライドポテト。その他のもの一切なし、である。

 よく知らないが、イギリス人、あまり食べ物に興味がなさそうである。日本で言うなら、梅のおにぎり、塩にぎりばかりを食べているような感じなのかもしれない。

 他の動画で見たのだが、フィッシュ&チップスは18世紀だったか19世紀だったかに工場で働く労働者がカロリーを手早く簡単にとれる飯として広がったらしい。また、イギリスのジェントルマンたちが質素な食事を心がけたことも影響しているという。食材の豊富さに対して禁欲的なのかもしれない。

 それはそれでひとつの食文化である。はたから見ていると貧しい食文化に見えるけれど、イギリス人からすれば大きなお世話なんだろうな。世界は面白い。

そんなにニッポン、ニッポンと騒がなくてもいいのではないか

 ニッポン・バンザイ論とでも言うべきものがあって、ことさらにニッポンは素晴らしいと言いつのる。日本料理は素晴らしい、歌舞伎は素晴らしい、俳句は素晴らしい、歴史にはこんな偉人がいた、そんな国に生まれて誇らしい、おお見よ、我らニッポン人と鼻高々になる。

 その割には外国からの評価ということを気にかけて、外国人がニッポンは素晴らしいと言っているのを見聞きすると有頂天になる。YouTubeにはその手の動画がわんさかある。「世界が驚愕!日本の〜」などと大袈裟なタイトルをつけながら、その世界とはアメリかせいぜいヨーロッパの大国だけだったりする。

 なんだか、鏡を見てニヤついている人、世間の評判をやたらと気にする人みたいで、みっともないとまでは言わないが、あまり様子のいいものではない。他人の手柄で自分まで高まったような気持ちになるのは、わからんでもないが、少々セコい感じもする。

 おれも和食は好きだし、歌舞音曲もいいものはいいと思う。日本建築も好きだし、日本の文芸、話芸に好きなものは多い。しかし、それは生まれてから育った風土のおかげで慣れ親しんでいるからというところが大きく、エチオピアに生まれたらエチオピアの文化や風俗が好きになるだろうし、コロンビアに生まれたらコロンビアの文化や風俗が好きになるだろうし、アメリカに生まれたらアメリカの文化や風俗が好きになるだろうし、モンゴルに生まれたらモンゴルの文化や風俗が好きになるだろうと思う。

 一言で言えば、ニッポン人であるということに対して自意識過剰な人が多いんではないか、とそう思うよね。世界は広いし、いろいろといいものがある。内ばかり見てヨロコんでいうのもなんだかなー、と思うのだ。

実は◯◯であった

 文楽や歌舞伎の狂言には、登場人物が実は歴史上有名な誰それであった、という趣向がとても多い。

 たとえば、義経千本桜の渡海屋・大物浦の段のあらすじから一部抜書きするとこうだ。

 

・・・義経一行の出発が迫る時刻、おりうが銀平を呼びます。すると「桓武天皇九代の後胤。平知盛幽霊なり」と名乗り、白糸縅(しらいとおどし)の鎧に身を固めた銀平が姿を現しました。

渡海屋銀平は、実は平知盛でした。知盛は船問屋の主人に姿を変え、安徳天皇を娘のお安、お乳の人・典侍局を女房おりうとして、義経を討つ機会を狙っていたのです。

 

 歌舞伎には曽我ものというジャンルというか、趣向というか、形式のものがあって、助六もそのひとつだ。助六所縁江戸櫻のあらすじを抜書きすると:

 

・・・そこへ現れた助六は、意休に悪態をつき、意休の子分くわんぺら門兵衛たちともひと悶着起こします。騒ぎが収まったところで、白酒売の新兵衛に呼び止められた助六はびっくり、兄の曽我十郎祐成でした。実は助六は曽我五郎時致で、紛失した源氏の重宝、友切丸詮索のため、喧嘩を吹っかけては刀を抜かせていたのでした。

 

 曽我兄弟は今の映画やテレビドラマなどに登場することは少ないが、源頼朝が富士山麓で巻狩を行った際に仇討ちをしたということで有名な兄弟だ。江戸時代にはメジャーな人物であったらしい。現代では馴染みが薄いから、助六の「実は」というところのニュアンスがわかりにくくなっているかもしれない。

 こうした「実は誰それであった」という趣向が江戸時代にどうして流行ったのか、よくわからない。英雄を(当時の)現代にぐっと引き寄せるというコンセプトだったのだろうか。

 これを現代でやるとどうなるのだろう。

 たとえば、村上春樹の「騎士団長殺し」でやってみる。

 

妻との離婚話から自宅を離れ、友人の父親である日本画家のアトリエに借り暮らしすることになった肖像画家の「私」(実は西郷隆盛)は、アトリエの屋根裏で『騎士団長殺し』というタイトルの日本画を発見する。アトリエ裏の雑木林に小さな祠と石積みの塚があり、塚を掘ると地中から石組みの石室が現れ、中には仏具と思われる鈴が納められていた。日本画と石室・鈴を解放したことでイデア(実は田中角栄)が顕れ、さまざまな事象が連鎖する不思議な出来事へと巻き込まれてゆく。 

 

 世界があっという間に崩壊する。

 原田マハの「楽園のカンヴァス」で。

 

ソルボンヌ大学院で博士号を26歳で取得している早川織絵(実は阿部定)は、国際美術史学会で注目を浴びている、アンリ・ルソー研究者である。ティム・W・ブラウン(実はマイク・タイソン)は、ニューヨーク近代美術館 (MoMA) のアシスタント・キュレーターである。コレクターのコンラート・バイラ―(実は紀伊国屋文左衛門)は、スイスのバーゼルにある、自らが住む大邸宅に織絵とティムを招き、彼が所蔵する、ルソーが最晩年に描いた作品『夢』に酷似した作品『夢をみた』について、1週間以内に真作か贋作かを正しく判断した者に、その作品の取り扱い権利を譲ると宣言する。 

 

 メチャクチャである。メチャクチャであるが、妙に楽しい。「実は誰それ」って、今でももっと活用できるんではないか。

 

日本の憧れ・コンプレックス

 ある企画書を読んでみたら、やたらと英単語が書いてあった。企画書を書いた人はあんまり英語ができないので、なんでだろうなー、と3秒考えて、答えが出た。おそらく、英語が「カッコいい」「レベルが高そうに見える」という感覚なのだろう。

 たいがいの日本人は英語にそれほど慣れていないから、英単語は意味を汲み取るのに時間がかかるし、ニュアンスもなかなかわからない。機能的には英単語を使うより、カタカナ表記にするか、日本語に置き換えたほうがよいことが多い。しかし、英単語には「カッコいい」「レベルが高そう」という感覚を抱くから、つい英語にしてしまう、と、そういうことではないか。

 日本の街の看板を見れば、英語であふれている。英語で書くと、洗練されて見えるからだろう。実は店の人も、客も大して英語ができなかったりする。

 現代の日本の人々の西洋への憧れ、コンプレックスというのは根強い。ちょっと考えたのだが、図式的に捉えると、こういうことなんではないか。

 現代の人々の西洋文化への憧れは強い。一方で、自分たちが西洋の人々になるのは無理だから(絶対なれないわけではないが、相当な苦労がいる)、ある種のあきらめが生まれる。そうすると、「我々」意識から、日本文化、特に昔のもの、たとえば、江戸や平安の文化への憧れに向かう。欧米に住んだ人々がしばしば強烈に日本主義者となるのは、そういう経路なんじゃないかと思う。

 江戸時代以前の日本では、現代の西洋文化の位置に、中国文化が置かれていた。儒学もそうだし、絵画も、建築もそうだ。昔のお寺というのは中国文化研究所のような役割も果たしていたようだ。なにしろ、飛鳥の昔から文化・文明はもっぱら中国から輸入されるものであり、当時の先進地域と看做されていたから、しょうがない。一方で、自分たちが中国人になれないのは当たり前だから、反動で日本文化に向かうこともある。国学なんていうのはそういう思考経路から生まれたんじゃないかと思う。

 夏目漱石森鴎外の世代というのは面白くて、(昔の)中国文化の教養と西洋の教養と、しかし西洋人にはなれないし、本当には西洋文化に染まれないという一種の悟りがあり、この三角形の図式にずっぽりはまっているように思う。

 現代は中国文化への憧れはあまり強くない。それでも、現代の日本の根っこの一部を占めてはいる。

 

気遣いのないやつ

 どうも道徳・説教じみて申し訳ないのだが、世の中には気遣いのないやつというのがいて、まわりに迷惑をかけて平然としている。

 その一にクチャクチャ噛む音を立てて物を食うやつというのがいる。飯屋でたまたま隣にこういうやつがいると災難で、クッチャクッチャ口の中で食べ物を噛み、混ぜ合わせている音を聞きながら自分のものを食べる羽目になる。なんとはなしに隣のやつの口の中を目にする(耳にする)ようで、げんなりする。

 まあ、これは気遣いがないというより、自分でもクチャクチャ立てている音に気づかないか、気にしていないのかもしれない。

 その二に電車や飯屋のカウンター(飯屋ばかりだな、話が)で自分の隣の席に荷物を置いて平然としているやつがいる。空いているならまだいいのだが、混んでいる電車なんかで平然と二人分の席を占領しているやつを見ると、「コイツは何を考えているのであろうか?」なんぞと思うのだが、まあ、何も考えていないのであろう。

 その三にクルマのクラクションを鳴らし続けるやつ。ビーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー、なんぞとクラクションのボタンを押し続けて、平和なまちの静寂をぶち壊して平気でいる。おそらく、前に駐車しているクルマが邪魔か迷惑で、運転手、出てこい、と抗議しているのであろうが、クラクション鳴らしているお前が迷惑である。しかし、これこそ、まわりに気遣いのないやつであるから、自分がまわりに与えている不快感には無頓着でいる。

 気遣いのないやつはある意味、楽だろうな、と思う。物を考えずに生きていられるから。しかし、自分がそういうやつになりたいかというと、いやだな。いやだ、いやだ。