欧米コンプレックスを生きる

 暇つぶしに浦沢直樹の「MONSTER」を読み始めた。

 内容はなかなか面白いのだが、それとは関係なく、表紙を見ていてふと思った。

 

 

 日本語の漫画なのだが、ほとんど欧文ばかりで構成されている。日本語は左端の小さな文字で、作者名、タイトルのみである。

 ドイツが舞台の話だから、演出として欧文を使うのはわからないでもない。しかし、テキストはなぜかドイツ語ではなく、英語である。

 日本には欧文、特に英文をカッコいいとする価値観がある。日本語の本で、特に使う必要はないのに英文が入ることが多い。たとえば:

 

 

 太宰治と英文は全然関係なさそうだが、なぜか著者名の二行目が「Dazai Osamu」となっている。名前の読み仮名として入れたのかもしれないが、「だざい おさむ」ではなく、「Dazai Osamu」だ。ひらがなだとださいからか。ださいおさむ。すみません。しかし、そのひらがなをださい、英文をよし、とするところに今の日本の価値観が隠れていると思う。

 Amazonで適当に例を拾ってみよう。

 

 

 

 

 どれも読んだことはない。ともあれ、英文が入るこことで洒落た感じや海外でも強うする話のようになる。どうやら、ひとこと英文を入れると洗練されて見える、というのが表紙のテクニックであるらしい。

 この、洗練されて見える、というのがポイントで、なぜ我々(日本で生まれ育った平均的な人々)は英文が洗練されて見えるのだろうか。

 生まれてから見るもの聞くものから刷り込まれてきたと考えるのが順当なところだおると思う。もっとほじくれば、明治の文明開化以来の呪縛というか、特に戦後のアメリカを中心とする欧米文化のなだれ込みによるものが大きいのだろう。英文で書かれている内容そのものは別に洗練されているわけではなく、上にあげた本でいえば、「怪物」「太宰治」「人と組織の潜在能力を解放する」「パフォーマンス」「なんて素敵な世界」というのを英文で書いただけである。

 欧文、特に英文を、書かれた内容とは関係なくカッコいいと思ってしまう。欧米をカッコいいと感じてしまう。そういう価値観のなかでわしらは育ってきたのだと思う。

 一方、その反動で、妙に日本を持ち上げたくなったり(もちろん、日本には素晴らしいものがいっぱいあるが)、極端なニッポン・バンザイ論者になったり、という反応もある。青少年が親に反発するような心理だろうか。欧米は親じゃないけど。