ゴタマゼの日本

 少し前に日本や東アジア、東南アジアの袖看板事情について書いたら、いくつか反応があった。その中に、日本の袖看板は漢字、カタカナ、ひらがな、欧文が混じっていてキチャナイ! というものがあった。

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 なるほど、日本の袖看板は文字の種類がゴタマゼである。もっとも、これは日本の文字事情がゴタマゼであるからして、しょうがないと言えば、しょうがない。

 日本の文字の歴史をたどると、まず中国から漢字が入ってきて、これを元にしてひらがな、カタカナが生まれた。明治の文明開化で欧文が入ってきた。文明開化以来のコンプレックスなのか、終戦後のアメリカば凄か! の影響なのか、何かこう、欧文で書くとカッチョよい、洗練されて見える、という受け止め方があって、(しばしば意味もわからないのに)欧文、特に英文を半分飾りとして入れる、ということが増えてきた。

 そう考えてみると、今の日本の袖看板というのは日本の文字文化のいくつもの層がそのまま反映されたものであって、日本の文化の歴史が反映されているとも言える。そもそも日本の文化がゴタマゼなのだ(日本以外の国だって大なり小なりそうであるが)。これからはさらに多文化が入ってくるだろうから、いずれ、ハングルはもちろん、アラビア文字やインド系の文字なんかも看板に入ってくるかもしれない。

 おれ自身は日本の袖看板のゴタマゼぶりが嫌いではない。にぎやかでワイワイを好む心象が反映されているようにも思うのだ。

 整然としたものはそれはそれで確かにきれいだが、それでなければならない、となると、息苦しい。わっと、ぐしゃぐしゃみたいなものの魅力も、それはそれであると思うのよね。