英語と洗練

 デザイナーと仕事をすることが多い。彼らは、機能上意味がなくとも――つまり、英語でコミュニケーションする必要がなくとも――しばしば言葉を英語で表記したがる。たとえば、バッチい例で申し訳ないが、作っているもののどこかに、

Shit

 などとあしらうのである。何となく洗練されて見せるからだろう。しかし、日本語で言うと、実は、

うんこ

 と書いてあるのだ。
 この「洗練」して見えるという感覚は興味深い。きちんと調べたことはないが、洗練して見えるのは、もっぱらせいぜい学校的な知識として英語を知っている人にとってではないかと思う。ネイティブ的な感覚で英語を使っている人には、「うんこ」という意味内容として、字面を見た瞬間に飛び込んでくるだろう。
 なぜに「うんこ」という英語を「Shit」にすると(英語を身体の奧にまで取り込んでいない日本人には)洗練して見えるのだろうか。直感的には文明開化以来の積年のコンプレックスの故ではないかと思う。ただし、韓国や中国の製品やグラフィックスにも、機能上意味のない英語の濫用が見られるから、もっと広く、世界の文化史的な視点で欧米系の優位ということを考えてみたほうがよいのかもしれない。一方で、東アジアにおけるヨーロッパ語の濫用ほど甚だしくはないが、欧米のグラフィックスに機能上意味のない漢字があしらわれることもある。他言語というのは、強い象徴的な意味合いや呪術的な意味合いをもって感じられるものなのかもしれない。
 おれ自身は、機能上の意味のない英語の使用には慎重である。本当の文化的洗練というのはそういうものではない気がするからだ。それに、欧米コンプレックスをまざまざと表現しているような気がして、あまり心持ちがよくないということもある。
 ただし、あまり重要でない、目立たせたくないところにあえて英語を使うことはある。英語の意味内容をとっさに捉えられないたいていの日本人の感覚を逆利用して、「ちゃんと読めばわからんこともないけど、普通はあまり気にする必要のないところ」を英語にしておくのである。まあ、ショッピングビルなどで、「便所」と書くより「TOILET」と書いておいたほうが、そこで行う行為をあまり生々しく思い浮かべないので好都合、というような感覚である。