英語と洗練

 街を歩きながらちょっと注意すると、英語の看板があふれていることに気が付く。別に日本語のできない外国人に便利なように、というわけではなくて、なんとなく洗練されて見えるからだろう。道ゆく人のTシャツやトレーナーには英文がよく書かれている。

 本の表紙なんかでも、別に翻訳本でもなんでもないのに、飾り的にタイトルや著者名が英文表記されていることが多い。

 あるいは、日本のポップスではサビ(曲の一番盛り上がるところ)に突然、英語がくることが多い。歌っている人間、あるいは聴いている人間がその英語をわかっているかというと、かなり怪しい。もっとも、英語サビは昔のほうがひどくて、たとえば、小室哲哉が売れていた頃にはサビは英語だらけであった。安室奈美恵の「Can You Celebrate」なんて他動詞と自動詞の違いがわからないものだから、「祝ってくれますか?」と言いたいところ、「儀式を行えますか?」「大騒ぎできますか?」という不可解な意味になっていた。できもしない英語を使うものじゃないな、と当時思ったものだ。

 なぜにこれほど英語であふれているか、それも自分たちではあんまり理解できないのに、というと、まあ、我が国の文化的状況がそうだから、ということになるのだろう。英語があると高まって見える、カッコウよく見える、という共通理解みたいなものが広がっているのだろう。第二次対戦後の状況も関係しているだろうし、明治・大正頃の文化・学問輸入状況も関係しているだろうし、もっとさかのぼれば、黒船以来の圧力というものも関係しているかもしれない。韓国や中国も英語であふれているようだから、もっと広く東アジアの文化的視線で眺めてみることもできそうだ。

 もっとも、母国語以外の言語がカッコウよく見えるというのは何も日本だけの話ではない。欧米人が日本語や中国語をタトゥで入れたり、日本語や中国語の書かれたTシャツを着たりというのも、一種のエキゾチシズム、意味がわからないからこその魔術的魅力なのだろう。日本(あるいは東アジア)の場合には、そこに洗練、文化的憧れ、優劣みたいなものが混じってくるから、おれなんぞはちょっともやもやしてしまう。

「一番」と書かれたTシャツを欧米人が着ているのを見ると、ちょっと可笑しいような困ったような心持ちとなるように、日本人がよくできもしない英語を憧れで使うのはもしかして英語のネイティブからすると可笑しいような困ったようなものなんではないか、とも思うのだ。