ニッポン・バンザイ論と不安感

 田中克彦の「ことばと国家」を読んでいたら、日本語への讃美についてのこんな一節があった。

一般に、自分のことばをことさらにほめる必要が生じるのは、どちらかといえば劣勢に立たされたり、あるいは強力な声援を送っててこ入れする必要のあるばあいである。だから人はいまさら、あらためて英語をほめる必要は感じない。

 その通りだと思う。少なくともおれは、英語を母語とする人たちが英語を素晴らしいと賛美する文章を読んだことがない。

 「自分のことば」というところを「自分の文化」と置き換えても、成り立つと思う。日本文化を素晴らしいと自画自賛する人は多いが、それについて、こんなふうに言い換えることができるだろう。

一般に、自分の文化をことさらにほめる必要が生じるのは、どちらかといえば劣勢に立たされたり、あるいは強力な声援を送っててこ入れする必要のあるばあいである。だから人はいまさら、あらためて英米の文化をほめる必要は感じない。

 自分の家柄を誇る人は、たいがい何らかの不遇に見舞われている人である。家柄がよいうえに順調に行っている人は、自分の家柄を自慢したいとはあまり思わないだろう。

 日本文化は素晴らしいと言い立てる記事や、あるいは外国人がこんなふうに日本文化を褒めていたと紹介する記事がよくある。おれはテレビをほとんど見ないが、その手の番組も結構多いようだ。無邪気といえば無邪気だが、その背景には常に、外からの脅威に圧倒されつつあるという不安感があるんじゃないかと思う。日本の文化を誇っているように見えて、実は己の不安感を晒しているわけで、言うなれば、負けてたまるかニッポン男児、のココロである。もしかしたら、それは黒船以来の呪縛かもしれない。

 あるいは、少々飛躍するが、中国や朝鮮をことさらに叩いて溜飲を下げる人々は、似たように、外からの脅威に圧倒されつつあるという不安感を抱いているんじゃないか。

 田中克彦の「ことばと国家」は1981年の本だが、かれこれ四十年間、状況は変わっていないように思うのだ。

ことばと国家 (岩波新書)

ことばと国家 (岩波新書)