似て非なる

「悠子」という名前を見ると、つい謝りそうになってしまう。


 たぶん、


悠 怒


 この二文字が似通っているせいだろう。
 いや、世の悠子さんのミナサンには申し訳ないのであるけれども。あ、謝ってしまった。


「悠」という字は「悠然」という言葉があるように、ゆとりのあるさまを表している。


「悠子」という名前をつけた方は、おそらく人間的に余裕のある、おおらかな人になってほしい、という願いを込めたのだろう。
 それを「怒子」と見間違うわたしがいかんのだが、見えてしまうものはしょうがない。ガキの時分からやたらと怒られてきたせいだろうか。


 こういう、似通っていることから意味を取り違えてしまう、ということは他にもあって、例えば、


檄を飛ばす


 というのもそうだろう。


 これ、大新聞でも、たまに間違いを見つける。


「『○○*1、ついとんのかい!』と監督が檄を飛ばすと、××選手はホームランを打った」という類の使い方だ。


「檄を飛ばす」は、昔の中国で誰かが決起・反乱を呼びかける檄文を各地(の諸侯だの軍閥だの)にバラまいたことから来ている(はず)。昔の共産党のビラみたいなものだ。


 それがなぜに、監督が選手に気合いを入れるような話になったかというと、


檄 激


 この二文字が似ているせいではないか。


 まあ、誤用も度重なるうちに誤用でなくなる、ということが言葉にはよくある。「檄を飛ばす」は今時点では微妙なところだ。


「すべからく」も同じ類だ。「当然」、「なすべきこととして」という意味で、本来、すべからく文末を「〜べし」で終わるべし。
 しかし、これを「すべて」という意味に捉えている人もいる。


すべ(からく) すべて


「て」がないでしょうが、「て」が! これでは、長州力長州小力を一緒にするようなものだ。


 で、アタクシはここで、別に「正しい日本語の使い方」を説きたいわけではない。そんなものは、どこぞのジジイかツリ目メガネのオバハンにでもやらせておけばよい。


 単に、文字の見え方や音の聞こえ方が似通っているせいで、イメージがヨジレていく現象が面白いのよね。


筆者(5年以上?前)


羽生善治


 ボクも将棋が上手くなるのかなあ。

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「今日の嘘八百」


嘘四百六十二 子どもが体に入れ墨を入れると、親は著作権の侵害を訴えることができる。


*1:○○に入るのは「運は」である。