漢詩というのがあって、独特の味わいがある。
代表を挙げれば、やはり、杜甫の「春望」が人口に膾炙しているだろう。「國破れて山河在り 城春にして草木深し」という例のアレだ。
ま、しかし、人口に膾炙している割には、最後まで覚えている人は少ないのでなかろうか。少なくともわたしは覚えていない。
こうやって終わるんだそうだ。
「白頭掻いて更に短かし 渾(す)べて簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す」
意味は、「白髪の頭を掻くと髪が抜け落ちて、かんざしをさすのもたえかねそうだ」だそうで、国や山河の話をしているうちに、なぜか抜け毛の問題へと至るのである。草木は深いのだが。
和歌や俳句が一般にやわらかな響きを持つのに対し、漢詩には重々しい響きのよさがある。武張ったふうもあって、男っぽい感じがする。
しかし、中国の人の朗読を聞くと、だいぶイメージが違う。
・敢李(音が出るので注意してください)
真ん中の三角ボタンを押すと、朗読を聞くことができる。
向こうで城が燃えているときに、妙にのんきな杜甫先生が素敵だ。
ま、それはいいとして、この朗読を聞く限り、日本語の「國破れて〜」の重々しさ、硬質な音の感覚はない。
日本の漢詩独特の重く堅い風韻は、昔の日本人が独自に作り上げてきた感覚なのだろう。もしかすると、「(日本語で読む)漢詩」は、中国の詩とは別物と考えたほうがいいのかもしれない。
これが、詩吟となると、また凄いことになる。
日本独自の、それもかなり特殊に発展した領域というほかない。
杜甫先生も、自分が作った詩がこうまでいろいろに展開するとは思っていなかったろう。
思えば遠くへ来たものである。
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
「今日の嘘八百」
嘘四百六十三 カチカチ山の話は、被害者側ならたいていの行動を大目に見てもらえるという教訓を教えてくれる。