一を聞いて十を知る

「昔の日本人は立派だった。品格があった」というような話をする人がいる。例えば、勇ましいことを言ってはウケているおばさんの評論家が、よくそんなことを書いているようだ。

 しかし、その手の話を目にするたびに釈然としない感じがする。

 何というか、例えば、二宮尊徳を引っ張り出して、「これこの通り昔の日本人は立派でした」と言われても、困る気がするのだ。それはまあ、二宮さんは立派だったろうけれども。というか、格別に立派だったから二宮さんは名前が残っているのであって。

 何だったら、こっちは石川啄木を出したってよい。ちょっと興味があって啄木の事跡を調べてみたことがあるのだが、その素行はあまり褒められたものではなかったようだ。金田一京助から借金しては女郎を買っていた、なんて話もある。そうして、生活が苦しい苦しいと訴える。「猶わが生活楽にならざり」などとうそぶく。いかんともしがたい人である。

 もちろん、昔(豪快にアバウトだが)は、二宮さんや啄木みたいな人ばかりだったわけではなかろう。また、同じ人でも、時によって立派であったり立派でなくなったり品があったり品がなくなったりもする。

 褒めるにせよ、けなすにせよ、ちょっと知ったことをとらまえて、一を聞いて十を知るようなことをついついやってしまう人がいる。しかし、一を聞いて十を知ったつもりの残りの九がてんであやふやなんだから、困ったものである。いや、時には、一を聞いて十を知り、その十が全部間違っていたりする。

 まあ、あと三十年もすれば、今のわしらも、「あの頃の日本人は立派だった。品格があった」と言ってもらえるかもしれませんね。