慣れ

 もうひとつ考えられるのは、昨日も書いた「慣れ」である。
「よろしかったでしょうか?」という表現に慣れると、自然に口をついて出てくるようになるのだ。


 例えば、わたしは就職したとき、「いつもお世話になっております」という言い回しに衝撃を受けた。それまでそんな言葉を使ったこともなければ、聞いたことすらなかったからだ。
「その電話の相手には、本当にいつもお世話になっているのだろうか?」と、大人の世界への不信感をつのらせたものだ。


 言葉通りに受け取れば、見知らぬ相手≒お世話になってない相手の場合、「いつもお世話になっております」は誤用、あるいは嘘だ。
 しかし、これはもう、そういうふうに言うのだ、という習慣になっているのだから、しょうがない。


 わたしも、すぐに平気で「いつもお世話になっております」と言えるようになった。
 人間はそうやって、だんだん汚れていくのである。さらば、青春の白さと香りのニュービーズよ。アデュー、我が友、純情よ。


 要するに、言葉というのは少々のリクツと、たいていは慣れ(これがまた、正体を見極めようとすると、複雑怪奇でようわからんのだが)。その2つがややこしく働き合って世の中を回りめぐっていく、と思うのである。


 ……とまあ、そんなふうに書いてきたけれども、本当は。
 全部、違います。


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「今日の嘘八百」


嘘二百六十 国境の長いトンネルを抜けると南国であつた。頭の中が白くなつた。