しかし、この手の問題って、なかなかカンタンにはいかんのよね。
えー、いささか逃げ腰で書いているわけでありますが、かつまた、消防隊員を見習って脱出路を先に確保しておくわけでありますが、まあ、程度問題ではあります。
程度問題ではありますが、どうも、リクツ、観念ばかりが先に立つと、いろいろなものがこぼれ落ちる、と、そんなふうに思うのであります。
例えば、わたしは女性の浴衣姿を、大変結構なものだと思う。女の子の浴衣姿もいいが、老婆のそれもまた、イカの姿フライのような味わいがある。
ところが一方で、モダンな考え方というんですかねえ。合理、観念を一直線に突き進めると、服なんぞは、男も女も(えー、用心して女も男も)、体にピタッと張りつく動きやすいものがいいんじゃないか、と、こうなる。
うまく頭の中に思い描けない人もいるかな。手塚治虫の未来を描いたマンガに出てくるようなスーツ。スピードスケートの選手のモジモジ君みたいなやつ。
何と呼ぶのかわからないので、ここでは、ピタハリスーツと呼んでおこう。
ああいうピタハリスーツの思想(ついに思想とまで来たね。自分でも驚いている)というのは、不合理なもの、過去のしがらみのしがらんでいるところ(こんな言葉はないか)を切り捨てた先に何が考えられるか、ということから来ていると思う。
わたしはガキの頃、マジで21世紀にはああいう服を着ているのだと思っていた。
しかし、少なくとも今のわたしには、ピタハリスーツを着て山手線に乗る勇気はない。
世の中、いまだにパンツはパンツだし、女子高生の制服はいっそ穿かなくていいんじゃないかというくらい丈が短くなっているのに相変わらずスカートだし、背広の襟すらなくならない。
しがらみは相変わらずしがらんでいるのだろう。
でまあ、浴衣姿というのは21世紀になっても結構なものだし、男も女も同じ浴衣を着るべきであるという主張があったらアナタは浴衣のよさがわかっていないと拳で机を叩きながら言ってやりたいし、老婆はともかく老爺はさほどみかんに執着しなさそうだし、ピタハリスーツは流行らないし、ピタハリスーツ着たところで出るべきとこは出て引っ込むべきところは引っ込んでいるではないか(人による)、と思うのである。
何が言いたいかというと――んー、自分でもよくわからなくなりました。
気がつくと、茫漠たる砂漠に立っている心持ちであります。
老婆心からピタハリスーツを経て砂漠に至ったわけでありますが、ま、しかし、砂漠には老婆がよく似合うと思うのであります。そこに一陣の風が吹くと、なおよいのであります。
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「今日の嘘八百」
嘘三百五十 ヘイ、ツリ目、カモーン!