わたしは不器用で――なのか、たるんでいるせいかわからないが、手に持っているもの、つかもうとしたものをよく落っことす。
飯を食っていて箸やフォークを落っことす、なんていうのは日常茶飯事で(文字通りだ)、飯屋で店のオネエサンに代えてもらうよう頼むときは、申し訳なくも恥ずかしい。
ところが、代えてもらったその箸やフォークをまた落っことすときがあって、これはさらに恥ずかしい。
飯屋で穴に入っていくやつを見かけたら、たぶん、それはわたしだ。
二度目の交換となると、店のオネエサンも半笑いだ。
あの半笑いは、苦笑なのか、「いえいえ、私どもは気にしてませんよ」という愛想笑いなのか、それとも嘲笑なのか、よくわからない。モナリザの微笑よりもっと謎である。
仕返しというわけではないけれども、飯屋や喫茶店で、店のオネエサンやオニイサンがトレイを落っことすときがある。
コップを載せた金属のトレイを落っことしたときなんざ、派手な騒ぎだ。
ガシャーン、グワグワグワグワグワワ〜ン(トレイが跳ねるのだ)、と、大音響が店内に響く。
それに重ねるようにして、落としたオニイサン、オネエサンが「申し訳ありません!」と大声で謝る。
わたしはあの瞬間が好きだ。ああ、生きててよかったと思う。それほどでもないか。
いや、別に意地悪で言うのではない。
それまでザワついていた店内が、一瞬、シーンとする。あの静寂、間がいい。
芭蕉の、
古池や蛙飛込む水の音
という句の、蛙が飛び込んだ後の静けさというのは、あのトレイを落っことした直後の静けさと同じなのではないか。