古池や蛙飛びこむ水の音
松尾芭蕉の俳句である。俳句といえばこれ、というくらいに有名だ。
静寂のありようを簡素に表現している、という点で、ある種の俳句の精神を象徴している、と捉えられている(らしい)。
しかし、これ、鑑賞できるだろうか。俳句としてしみじみ味わうことができるだろうか。
わたしには難しい。あまりに見慣れてしまった。
俳句の代表としてひんぱんに引っ張り出されすぎるせいだろう。謙虚に、ゼロ地点に立って句と向き合うことはできない。
その点、尾崎放哉の
すばらしい乳房だ蚊が居る
はまだまだ大丈夫だ。十分に驚ける。楽しめる。そして笑える。
芸術の各分野には、引っ張り出されすぎて、素直にその作品世界で遊べなくなっているものがあるように思う。
西洋美術では、「モナリザ」がそうであろう。
わたしがこの絵を見て最初に思うことは、「あ、モナリザだね」ということだ。
いろいろな知識や経験の記憶(世界堂の広告とか)が船底の貝殻のように付着してしまって、一個の美術作品として楽しむことは、もはやできない。
ちょっとばかり残念な気がする。
もっとも、「モナリザ」の本物を見ると圧倒されるという話も聞いたことがある。
残念ながら、ルーヴル美術館に行ったことがないのでわからないが、わたしが慣れすぎて、古いパンツのゴムみたいになっているのは、「モナリザ」の絵柄についてだけだと思いたい。
クラシック音楽の分野では、ベートーベンの交響曲第五番「運命」の出だしが、最も記号化していると思う。
「ジャジャジャジャーン」と来て、タイトルが「運命」ってんだから、パンチが強すぎた。
もっとも、あの「運命」というのはあくまで日本で広まっている通称に過ぎず(ベートーベンがつけたわけではない)、他の国ではさほど広まっていないという。
これはやっぱり廃止してほしい。ベートーヴェンの交響曲第五番は、絶対音楽のなかでももっとも絶対的な音楽であり、あらゆる文学的イメージともっとも遠いところに存在する。
とまで書いている。
へええ、そうなのか、と思うが、残念ながらわたしは、出だしで笑い出してしまうくらい毒されており、もはや純粋に音楽としては楽しめない。
芸術作品も、「代表例」として世の中に流布しすぎてしまうと、作品自体のよさを味わえなくなってしまうんではないか。
脳の中の他の場所が、きっと邪魔をするのだ。
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