ジジイと松

 昨日の続き。「可愛い」という感情はどういうふうに起こるのか、という話。
 もちろん、テキトーに書いている。


 我々は、何かに欠けているものを見たとき、しばしば補ってあげたいと感じる。


 例えば、放り捨てられた赤ん坊を見たとき、これはどうにかしてあげたい、せずにはいられない、というふうな強力な感情が我々の中に湧く。赤ん坊は生きていくためのことを自分ではほとんどできないから、こちらで補ってあげるしかないのだ。


 そういう感覚は、もしかすると次の世代につなげるための本能的なものなのかもしれないが、そっち方面に踏み込むと話が広がりすぎるので、置いておく(し、たぶん、わたしごとき馬鹿の手には負えない)。


 でまあ、赤ん坊に対するような、欠けているものを補ってあげたくなる心の動きが、「可愛い」という感覚の源泉ではないか、と昨日、書いた。


 ここまではヨゴザンスね、ヨゴザンスね。いや、ヨゴザンスことにしておいてください、とりあえず。


 では、赤ん坊や子猫、子犬の類とは別のものに対して、人はなぜ「可愛い」と表現するのだろうか。


 若い女の子(年取った女の子、というのはあまりいないが)を爆心地として、今の時代は「可愛い」という言葉がとても幅広く使われるようになった。


 若い女の子達はやたらめったらと「可愛い」を連発する。使える言葉が限られているせいもあるだろうが、しかし、言葉である以上は何らかの使う理由があるはずだ。


 例えば、陽気な爺さんが昔を思い出してツイストを踊り出したとする。年でちょっと足腰の追いつかないところもあるが、それも一種の愛嬌になっている。
 それを見た若い女の子達は、かなりの確率で「可愛い!」と言い出すだろう。


 一方で、一本の老いた松の木があるとする。その枝ぶり、古び具合がとてもいい。子どもの頃からいつも見てきた松で、気に入っている。一種の愛情を抱いている。


 しかし、そういうものに対して、我々は普通、「可愛い」とは表現しないのだ。語彙の著しく欠ける若い女の子達だって、「この松、可愛い」とは言わないだろう(松に愛情を抱く若い女の子が世の中にどのくらいいるかはわからぬが)。


 この、ジジイと松の違い、どこにあるのだろうか。


 わたしの考えはこうだ。


 ツイストを踊るジジイは心を開いている。ある意味、油断していると言ってもいい。
 先ほどの、「欠けているものを補ってあげたい」説に結びつけると、「この人は今、心に防備が欠けているな」とか、「大人らしいしかつめらしさに欠ける」ということが、「可愛い」という感覚を呼び起こすのではないか。


 一方で、古びた好ましい松は、何かに欠けるということがない。赤ん坊に対するような、補ってあげたいという感覚を抱きにくい。
 だから、好きな松の木でも「可愛い」とは言わないんじゃなかろうか。


 まあ、松の木がツイストを踊り出せば話はまた別だが。


 では、子供服を見たときとか、ファンシーグッズを見たときに「可愛い」と表現するのはなぜか――というと、またちょっと事情が違う気もする。
 子どもっぽいもの、子どもが使うようなものだからだろう。


坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の反対で、えーと、どんな言い回しだっけ、「亭主の好きな赤烏帽子」はちょっと違うな、「あばたもえくぼ」も違う――とにかく、好ましい人(この場合、子ども)が使っているものまで好ましく見える、ということではないか。


 とまあ、くどくどと書いてきて、エート、自分でも何のためにこんなこと書いているんだかわからなくなってしまったが、ともあれ、人工的に「可愛さ」を狙って作られた物は嫌いだ。嘘くさい。男は黙ってサッポロビール、である。関係ないか。


 ファンシー、人工的な「可愛い物」が世の中にはびこってきたのはなぜか、と思うのだ。
 もしかしたら、怖いもの、得体の知れないものが増えてきて、そういうものから目を逸らしたいからじゃなかろうか。

                  • -


「今日の嘘八百」


嘘五百九十四 今、ドナルドダックとキティちゃんとミッフィーとマッチ売りの少女が素手で戦う格闘ゲームを企画しているのだが、権利関係だけで700億円ほど必要らしい。