昨日も書いたように、わたしはファンシーなものが嫌いで、もし一生を何かに捧げなければならないのなら、ファンシーとの戦いに捧げたっていいと考えているくらいだ。
しかし、今のところ、どこからもそういう話は来ていないので、部屋でぼんやりしている。
言い方を変えれば、「可愛い」とされるものが嫌いなのだが、これにはちょっと説明が要る。
子どもは好きだし、子猫や子犬を見れば可愛いと思う。別にそう感じることが嫌ではない。
どうやら、わたしは人工的に作られた「可愛い物」が嫌いであるらしい。
人工的に作られた「可愛い物」を見ると、あざとい、インチキくさい、わざとらしい、といくらでも罵倒観音になれるのだが、この3つのワード、ディズニーにずばり当てはまりますね。
もちろん、わたしはディズニーランドに行ったことはない。もし地獄というものがあるなら、わたしにとってはディズニーランドのようなところだ。
死んで、閻魔様のところに引っ張ってこられて、「そのほう、不届き至極につき、ディズニーランド行きを命ずる」などと宣告されたら、泣いて謝るかもしれない。
ま、そんなことはいい。
可愛いという感覚は、いったい、どうやって引き起こされるのだろうか。
わたしは以前、「可愛い」というのは「愛す可し(べし)」で、愛情を覚えるものを特に若い世代は「可愛い」と呼ぶのだと考えていた。しかし、「可愛い」というのは当て字なのだそうだ。
考えてみれば、大人の相手に対する愛情というのは「可愛い」とはちょっと違う(ま、「可愛い」が混じることもあるが)。
父母に抱く愛情は「可愛い」からではないし、「愛国心」が「日本を可愛いと感じる心」では、いろいろと不満の向きもあろうと思う。
愛情だけではダメなのだ。「可愛い」とは言えない。
人は、何かに欠けているものを見たとき、補ってあげたいと感じる。それが愛情のひとつの形だ、という説もある。
なるほど、そうかもしれない。敷衍すると、何かに欠けて補ってあげたいものを我々は可愛いと感じるのではないか。
例えば、赤ちゃんというのは欠落しまくりだ。1人では飯も調達できないし、ウンチしても自分で始末できない。歩けないし、走れないし、踊れないし、スキップもできない。そもそも、いちじるしく社会常識に欠ける。
そういうものを見たとき――本能なのか、学習なのか、その両方なのかよくわからぬが――「何とかしてあげたい」と思う。それが「可愛い」の源泉ではないか。
と、ここまで書いて、時間が来てしまった。続きは明日、書きます。
最後にしつこいようだが、繰り返したい。「ファンシーよ、去りなさい」。
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「今日の嘘八百」
嘘五百九十三 「神も仏もないものか」と言われるたびに、お釈迦様は極楽の蓮の上で座禅を組みながら「そんなこと言われても……」と困った心持ちになるという。