ヤラセとシキリ

 テレビの本質はヤラセとシキリだという説があって、なるほど、なかなかうがったことをいう。

 ――などとトイレに座りながら考えていたら、悟りを開いた。もっとも、わたしは週に二、三回は悟りを開くから、あまり当てにはならない。

 テレビの本質はヤラセとシキリというが、森羅万象の本質も実はヤラセとシキリではないか、というのが今回の悟りである。わたしらは、得てして自分の意志で行動しているように思うけれども、実はヤラセとシキリに従って動いているだけなのではないか。遺伝子というのもあるし、環境要因というのもある。あるいは、なーんとなくの空気というのもあるし、上司や家族のしかめっつらというのもある。「私たちはシキっているのではありません。シキられているのです」と言えばこれは仏教系の法話になるし、「全ては神のヤラセとシキリのままに」と言えばこれはキリスト教系の説教になる。わはは。悟った、悟った、ユーレカ!(そうか、わかったぞ)とトイレから飛び出して、今、これを書いている。だから、尻は拭いていない。 

 つまり、神様というのはヤラセとシキリの大元締め、テレビ・プロデューサーとテレビ・ディレクターを兼務していらっしゃるような方なのかもしれない。あるいは、神様の中には(おひとりなのか何人もいらっしゃるのか、わたしごときにわかるわけないが)照明さんや音声さん、衣装さん、あるいはADとしてコマネズミの如く働いている方もいらっしゃるのだろうか。中には、「編成」といって、あまり表には出てこないけれども、内部では大変な権力を持ち、恐れられている存在もあるのやもしれぬ。

 まあ、そういった具体的なことについては知るよしもない。結局、いつもの如く、わたし(ら)はなーんにもわかっていないのだ。

 今、ここでこうやって文章を書いているのも、ヤラセとシキリのゆえなのかもしれぬ。もしかしたら、あなたがこれを読んでいらっしゃることも。