諦め

 30歳を越えると、「そういうものだ」と「それがどうした」が2大キーワードになってくるのだそうで、なるほど、そういうものだ。それがどうした。


 わたしくらいの年になると、いろいろと自分にできること、できないことがわかってくる。
 どうやら、プロ野球の選手になるのは難しいらしいし、美青年になるのも無理なようだ。


 というより、できることを数えたほうが早いようで、まあ、そんなこんなで、ゴマカシゴマカシ生きている。


 できることが少ないということは、多くのことを諦めねばならないということであって、また、実際、性分なのか、わたしはやけに諦めが早い。


 ああ、これ、諦めよう。それも諦めるしかないな。あれも諦めるか。いっそ、どれも諦めてしまえ。


 などと、コソアドでまとめて諦めてしまい、その豪快な諦めっぷりには自分でも感心するくらいである。


「諦念」という言葉もあるから、これほど諦めれば、仏教で言う悟りの境地に近づけるのではないか、と思うのだが、その兆しすらない。
 コレハドウシタコトカ、と、広辞苑で「諦念」を引いてみると、こうあった。


道理をさとる心。


 ああ、道理を悟らにゃならんのでしたか。そりゃ、無理だわ。


 と、またひとつ諦めたところで、今日はこれまで。よいこのみんなはマネしないでね!

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「今日の嘘八百」


嘘三百四十 陸上競技1万メートルを走っているうちに、全員、バターになってしまったという。


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