ンー、今いち、言わんとしていることが伝わっているかどうか、自信が持てない。
芭蕉は、この句を作ったとき、別に「俳句といえば、こういうの」という例を作ろうとしたわけではないだろう。
「お、水の音がした。蛙が飛び込んだのだな、あの池に。静かである」だかなんだか、そんなことに感じ入って、句にしたのだと思う。
ところが、句の出来がよすぎたのか、やたらと引き合いに出されるようになって、人々が句に“慣れて”しまった。
慣れすぎて、句そのものの内側でしみじみ感じ入ったり、味わったりがなかなかできなくなった。句がすりきれた、と言ってもいいかもしれない。
とまあ、そういう慣れすぎのもったいなさ、というものが、表現方面にはあるんじゃないかと思う。
ベートーベンの第五「運命」の出だし、ダダダダーン、なんていうのも、やたらと使われすぎて、多くの人は素直に聴けないんじゃないか。
「お。出ましてね、例のアレ」と、マンネリに似たことになっていると思う。
「運命」という通称(ベートーベンではなく、後の世の人がつけたらしい)も冒頭部にハマりすぎて、「例のアレだ。あははは」という感じ方を助長しているかもしれない。
あるいは、正岡子規の
柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺
も、芭蕉の古池ほどではないが、だいぶ「例のアレ」化していると思う。
まあ、味わえるかどうかは人によるところが大きいだろうが、わたしは辛うじて句の内側に入れる、かもしれない、かなあ、といったところだ。
なお、最近の子規研究によると、この句は、柿を食うと法隆寺の鐘が鳴る、という因果関係について詠んだものだそうである。
だから、柿のうまい秋になると、坊主が鐘を鳴らしっぱなしで、相当うるさいらしい。嘘であるらしい。
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「今日の嘘八百」
嘘三百八 「むざんやな甲の下のきりぎりす」については、ヤラセ疑惑も出ているという。