方言俳句

 俳句の話が続くけれども、別に凝っているわけではない。わたしは俳人というより廃人に近い。


 方言で俳句を作る、ということがあるのかどうかは知らないが、「生活に根ざした」とか、「生き生きとした言葉の感覚」とか、「郷土の心」とか、そういうリクツはいかにも出てきそうだから、たぶん、あるのだろう。


 今日やってみたいのは、方言を使って新しく句を作る、ということではなくて、方言を使って既存の俳句を作り替えてみる、ということである。


 例えば、子規の「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」を関西の言葉でやるとどうなるか。


柿食へば鐘が鳴るねん法隆寺


 元の句より、何かこう、こっちに近づいてくる感じが出る。会話の言葉だからだろうか。


 関西の人に言わせると、東京の言葉は気取って聞こえるのだそうだ。


 わたしは東京近辺に住んでもうだいぶ長いのだが、日常生活では特に気取っているふうに感じない。
 しかし、俳句に使ってみると不思議なもので、


柿食へば鐘が鳴るよね法隆寺


 確かに気取っているふうに見える。なぜだろうか。


 広島弁で行ってみる。


柿食へば鐘が鳴るけん法隆寺


 雄々しく感じられる。「仁義なき戦い」以来のヤクザ映画・実録物路線のせいだろうか。


 わたしは富山で生まれ育ったが、富山弁というのは相当訛がキツい。その割にあまり知られていない。


柿食へば鐘鳴るがやちゃ法隆寺


 これを読んだ富山の人は、たぶん、何となく気恥ずかしくなるだろう。
 富山の人には、「外の人」に対して、富山弁を恥ずかしく感じるところがある。なぜなのかはよくわからない。


 鹿児島弁だとどうなるのだろう。


柿食へば鐘が鳴るでごわす法隆寺


 今でも「ごわす」なんて言い方するのだろうか。五七五もめちゃくちゃだ。めちゃくちゃついでに、


柿食へば鐘がちぇすとと鳴るでごわす法隆寺


 なんてのは、鹿児島の人に怒られるかな。