次は短歌でやってみよう。
お出ましいただくのは、石川啄木。わたしは日本文学史上、これほどダメな人も珍しいと思っている。ダメの王子様と言ってもいいくらいだ。
お題は、
はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢつと手を見る
なお、啄木は晩年(といっても三十代だが)こそ病気で苦労したらしいが、若い頃の借金は単に浪費癖がひどかったからだそうだ。
広島弁だとどうなるか。
はたらけど
はたらけどわが生活楽にならんけん
ぢつと手を見るけん
生活は楽ではないとしても、元気そうではある。
元の歌よりも不思議と生活感が出る。女性が歌ったと想像して見てみると、何やら愛しい。後ろからそっと抱いてあげたい。
鹿児島弁(なのか?)。
はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならぬでごわす
ぢつと手を見るでごわす
西郷さんが言っているように見えて、しょうがない。
鹿児島弁――というより、西郷弁はやはり強力である。啄木の別の歌で行ってみよう。
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむるでごわす
白砂の磯で蟹と泣きながらたわむれる西郷どん。もはや、シュールレアリズムの世界だ。
関西の人が想像しそうな東京弁で。
東海の小島の磯の白砂に
ぼく泣きぬれて
蟹とたはむれちゃったよ
たはむれちゃいましたか。
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「今日の嘘八百」
嘘三百十 奈良の大仏様の右手、あれは気さくに「よう!」と言っているのだそうだ。