爆笑作品

 人間的に何かが欠けているのか、おれはどうも深刻さを真面目に受け止められないようだ。まあ、単に深刻になる状態を避けたいという卑怯者の精神の働きなのかもしれない。
 たとえば、前にも書いた覚えがあるが、石川啄木。例のとりすました写真の影響か、薄幸の天才歌人と生真面目に捉えられているようだけれども、果たしてどうなんだろう。あの有名な歌だが、

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

「ダハハハハハハハハハ。蟹、カ、蟹。ダハハハハハハハハ」
 思いついてから爆笑したんではないかと思う。何たって、泣きながら蟹と遊んでいるのである。異常な状況である。そして、異常な状況というのはしばしば爆笑を呼ぶ。爆笑するか深刻方面に落ち込むかはその人の性根によるのだろう。誰も啄木が歌を作ったところを見ていたわけではなし、どうせわかんないんだからおれは啄木が爆笑しているところを想像して楽しんでいる。
 あるいは、太宰治の「人間失格」もそうだ。あれはギャグ作品のつもりだったんじゃないかとおれは思っている。主人公のダメさ加減とモテモテぶり(生家の女中やら下男やら、カフェの女給やら、雑誌社の女記者やら、バアのマダムやら、タバコ屋の娘やら、薬屋の奥さんやら、介護の老女中やら、やたらと犯され、関係を結ぶのである)、不幸へのとめどもない螺旋下降。読むと、笑ってしまう。たとえばですヨ、主人公が情死に失敗して女だけ死なせた後で入院する。その病院で――。

自分の病室に、看護婦たちが陽気に笑いながら遊びに来て、自分の手をきゅっと握って帰る看護婦もいました。

 ああ、何と救われないダメさ加減。この一文、さらりと書いてあるので見落としがちになるが、太宰治、会心のギャグだと思う。
 そうして、話の大詰め。考えられないような不幸をここまで書き連ねた果てに、太宰治はこう書いた。

人間、失格。

「ダハハハハハハハハ」
 句点を記すと同時に、太宰治は大爆笑したんじゃないか。
 あるいは、ベートーベンの第五。初演で、五、六十人からなるオーケストラが冒頭を鳴らしたとき。

♪ジャジャジャジャーン!

「ダハハハハハハハ」
 ベートーベンも爆笑。だって、あまりに大仰で、決まり過ぎだ。
 そして、ムンク

 一般には人間の心の奥底からの不安だの強迫だのと言われているようだが、いやいや、ヒョウタン男や背景のウネリを絵の具でうにうに描きながら、ムンクはウヒウヒと笑っていたに違いないとおれは思う。だって、面白すぎるじゃないですか、この絵、この構図、この状況。
 いや、事実そうだったと断言するわけじゃないですヨ。でも、おれはそんなふうに想像してはゲラゲラ笑っているのである。
(いささか蛇足めいたことを書くと、深刻な状況に陥って深刻に物を考えることと、深刻な振る舞いや深刻そうな表現にロマンを見いだすことは違うことだと思うのよね。)