正しい日本語と方言

 おれは富山で生まれ育って、大学に入るため、東京に出てきた。

 富山にいた高校まではがっつり富山弁をしゃべっていて、今でも父母兄弟と話すときは自然と富山弁になる。

 若い頃は、東京で方言を話すのは恥ずかしいこと、という感覚があった。高校生のとき、受験の下見に東京に初めて来たとき、特急白山のなかで同行した同級生たちと「東京に着いて、最初に富山弁出したやつ、飯おごり」と約束した。誰が飯をおごったかは忘れた。

 三、四十年前は、たぶん、おれだけでなく、多くの人が方言を垢抜けないもの、どこか恥ずかしいものと感じていたように思う。東京であからさまに方言を笑う人もいた。

 今はその頃よりはだいぶましになって、それぞれの方言のニュアンスを好ましいものと捉えられるようになってきた。それでもいまだに方言を下に見る感覚はあるし、おれも他地域の人の前で富山弁を話すのには抵抗を覚える。

 洗練されない、痩せこけた話である。

 よく人の言葉遣いについて「日本語として間違っている」とか、「正しい日本語を使ってほしい」と言う人がいる。その「正しい日本語」というのはおそらく標準語(共通語)か、NHKのアナウンサー言葉のことだろう。では、方言は正しい日本語ではないのだろうか。

 いわゆる標準語は、明治以後の国語教育のなかで成立していったらしい。戦後は文化庁のもとの国語審議会で日本語表記や発音についての基準や方針を定めた。例えば、昭和三十年代半ばの第五期国語審議会の報告書はこんなふうだ。

文化庁 | 国語施策・日本語教育 | 国語施策情報 | 第5期国語審議会 | 語形の「ゆれ」の問題

 標準化、統一を目指す形で議論されている。

 一方、NHKには放送用語委員会という機関があって、ここで用語や発音の標準化を行っている。しゃべり言葉について「正しい日本語」「間違った日本語」を指摘する人たちはこの委員会が定めた用語、音の感覚を(おそらく、なんとなく)正しいものとしているのだろう。

 おれは言葉というのは地域(空間)でも時代(時間)でも変化するし、いろいろなものがいりまじるし、そのほうがニュアンスも多様になって結構だと思っている。でなければ、今でも「ありをりはべりいまそがり」などと言っていなければならないかもしれず(まあ、平安朝が基準という理由もないが)、正しい日本語なんてものはないだろう。

 別に政府系の審議会や放送局の委員会に従う義理はない。むしろ豊かな表現を考えるなら、もっと各人勝手にやりたいようにやればよいと思うのだ。嫌いな言葉も含めて。

 自分の「嫌い」を社会的に見た「誤り」とすり替えてはいけない。「間違い」を指摘することで、溜飲を下げたり、一段高まった気分になったりするのもみっともないと思う。