昨日も書いたように、わたしは富山以外の土地で富山弁を使うことに、ちょっと抵抗がある。
気恥ずかしさがつきまとう。田舎者の卑下も混じっているかもしれない。まあ、ここいらには、日本の文化的・歴史的事情というものも関係しているのだろう。
今は「田舎者の卑下」とか、「方言を恥じる」とかは、建前の上ではよろしくない、ということになっているのだが、ナニ、こういう感覚というのはそう簡単に消えるものではない。文化的・歴史的事情をナメてはいけない。
昨日のように、これみよがしに富山弁を使うときは、パーンとおおっぴらにすることで、コンプレックスを粉々にしてしまいたい、という心理も働くようだ。
塹壕に籠もりっきりの兵隊の、突撃衝動みたいなものですね。
まあ、たいていは衝動で突撃すると、一瞬の解放感の後、ズタボロにやられて、ハイソレマデヨ、となるわけですが。
もうひとつ、富山弁を他の土地で使ってもなかなか通じない、という理由もある。
全国的にあまり知られていないということもあるし、系統として、東北の言葉とも、関西系の言葉とも違う、ということもある。
隣県の新潟ともだいぶ違うようだ。石川は近いかもしれない。
九州の言葉は、九州男児の益荒男ぶりの故か、はたまた左門豊作のおかげか、結構、知られている。
東北弁――という捉え方も雑だが――も、例えば、「こっ恥ずかスィ」と聞けば、正確にどこの土地かは特定できなくても、「ああ、東北の言葉だな」とわかるだろう(もっとも、本当にディープな津軽弁で喋られると、ほとんど同じ国の言語とは思えないくらいだが)。
東北の場合は、季節労働者、いわゆる出稼ぎの人々や、かつての集団就職で、東京に人が大勢来たことも大きいかもしれない。
人の交流があると、それが印象に残って、映画やテレビ・ドラマ、漫画やなんかで扱われる。結果、認知度が増幅される。
明治期、人の行き来が自由になってから、富山の人も結構、関東に出てきたそうである。農家の二男・三男の問題もあるし、雪深さに嫌気がさして、もっと温かい土地を求めて、ということもあったという。
地図を見るとわかるが、富山から東京に来るには、新潟を経て、越後山脈を越え、群馬へと出る。
ところが、群馬の前橋、高崎あたりへ来ると、もう平野部で、天気がよい。冬に晴れている、雪がないということに感動してしまい、だから、あのあたりに住み着いた富山の人がだいぶいると聞いたことがある。
群馬で満足して、結局、東京までたどり着かなかった、というのだけれども、ホントかなあ。
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「今日の嘘八百」
嘘七百四十二 アルプスの少女ハイジがなぜディープに訛っていないのか、理解に苦しんでおるところであります。