よとかねとか

 終助詞というのだろうか、日本語の会話では「よ」とか「ね」とかが文末にやたらと付く。逆に終助詞がつかないとどうも感じが出ない。時々、ドラマやなんかでこなれていない口調の会話に出くわすことがあるが、シナリオライターが地の文のような調子で会話を書いているせいもあると思う。「おれはそう考えた」とかね。実際には、日常生活でそういう言い方はあまりしない。

 英語では、相手の同意や確認を求めるという意味で付加疑問文が「だよね」と同等の機能を持っているようだが、日本語の会話の「だよね」ほど頻繁には出てこないようだ。他の言語については知らないが、日本語の会話では相手の同意や確認、あるいは相手への念押しがやたらと行われるように思う。

 刑法の条文に「よ」とか「ね」を付けて、その機能を見てみよう。

(死刑)
第十一条  死刑は、刑事施設内において、絞首して執行するね。
2  死刑の言渡しを受けた者は、その執行に至るまで刑事施設に拘置するよ。

「よ」とか「ね」を付けるだけという安易な手法で、人間と人間の間の距離は簡単に縮むようである(刑法を語っている人間が誰なのかはよくわからないが)。何だろう、この異様ななれなれしさは。

(懲役)
第十二条  懲役は、無期及び有期とし、有期懲役は、一月以上二十年以下とするよ。
2  懲役は、刑事施設に拘置して所定の作業を行わせるね。

 権威や重々しさは引っ込むが、一方でかえって権力の怖さのようなものを感じさせる。ヤクザがわざと親しげに語って怖さを倍増させるテクニックのようなものだろうか。

 方言にはそれぞれ独特の終助詞があって、これも日本語の面白いところだ。例えば、広島弁だと、

禁錮
十三条  禁錮は、無期及び有期とし、有期禁錮は、一月以上二十年以下とするけん。
2  禁錮は、刑事施設に拘置するけん。

 なぜだか雄々しく感じられる。広島の人だっていろいろで、雄々しい場合もあればそうでない場合だってあるだろうに。東映ヤクザ映画路線の影響だろうか。

 おれの生まれ育った富山の富山弁ではやたらと文末に「ちゃ」が付く(高知も「ちゃ」が付くようだ。方言周圏論が成り立つのかもしれない)。

(有期の懲役及び禁錮の加減の限度)
第十四条  死刑又は無期の懲役若しくは禁錮減軽して有期の懲役又は禁錮とする場合においては、その長期を三十年とするちゃ。
2  有期の懲役又は禁錮を加重する場合においては三十年にまで上げることができ、これを減軽する場合においては一月未満に下げることができるちゃ。

 軽く、ゆるゆるに響く。

 こういう方言ごとの終助詞による印象の違いというのは、どういうメカニズムで生まれるのだろう。どの方言だって、厳しい言い方をする場合もあれば、やわらかい言い方だって、なれなれしい言い方をする場合だってあるはずなのに。言葉の印象というのは不思議である。