よくは知らないが、詩というのは元々、節をつけて歌うものであったらしい。
例えば、漢詩は前漢の頃には楽曲がついていたという。それがだんだんと音楽から離れていって、後漢から三国の頃に純然たる言語の芸術となった。三国志で有名な曹操は、言語としての詩を確立したという点で、文学史に名を残しているとか。
わが国の和歌も同じで、だいたい「歌」という字であることからして、いかにもそんな感じがする。
和歌がいつ頃メロディを失ったのかは知らない。源氏物語では手紙で歌をやりとりしているから、その頃にはもうメロディを失っていたのだろうか。それとも、まだメロディは残っていて、書かれた歌を見ると、当時の人々は節とともに歌を味わえたのだろうか。だとすれば、当時の手紙は歌詞カードをやりとりするようなものだったのかもしれない。
仮に歌にメロディがついていたとすると、どんな具合だったのだろうか。
試しにテキトーに源氏物語を開いてみる。光源氏が、幼い紫の上を引き取った場面があった。源氏が紫の上にこんな歌を送る。
ねは見ねど哀れとぞ思ふ武蔵野の
露分けわぶる草のゆかりを
注釈によれば、「まだ枕を交したことはないが、藤壺の姪にあたるこの幼い人を大変可愛いと思う。『武蔵野の草』は紫草で、藤壺のこと。『草のゆかり』は紫の上のこと」だそうだ。「ね(寝、根)は見ねど」「露分けわぶる」がきわどい。というか、露骨だ。幼女に向かってこういう歌を送るのだから、毎度思うのだが、光源氏というのはとんでもない男だと思う。
これに対して、幼い紫の上がこういう歌を返す。
かこつべきゆゑを知らねばおぼつかな
いかなる草のゆかりなるらん
これまた注釈では、「あなたは『草のゆかり』とおっしゃいましたが、何で可愛がって下さるのか、そのわけが分からないから気にかかります、いったい私はどんな縁故があるのでしょう」という意味だそうだ。
さて、文字のテクニックで節らしいものを付けて、ふたりにやりとりさせてみよう。もちろん、メロディは残っていないから、気分だけである。
光源氏が、幼い紫の上に向かって歌う。
♪ねは見ね〜どぉ〜
哀れぇ〜とぞぉ思ふぅ〜武蔵ぃ野ぉの〜ぉ〜
露分けぇ〜わぶるぅ
草のゆか〜ぁ〜りぃ〜ぃ〜を〜ぉ〜
紫の上が歌い返す。
♪かこつぅ〜べきぃ〜
ゆゑぇ〜を〜知らぁ〜ねばぁ〜おぼつ〜かな〜ぁ〜
いか〜なるぅ〜草のぉ〜ぉ〜
ゆかりぃなるぅ〜らぁん〜
情趣があるといえば情趣があるが、冗長といえば冗長である。間抜けといえば間抜けだ。もし、当時、歌にメロディがついていたとしたらこんなふうだったのかもしれない。
悪乗りついでに、現代語でやってみよう。
光源氏が、紫の上に向かって歌う。
♪寝は〜ぁ〜しないけどぉ〜
かわいらしいよ〜ぉ〜武蔵ぃ野の〜露ぅ〜
分け入るぅ〜わけにもぉ〜いかぁ〜ないよねぇ〜
草のぉ〜ゆかりぃの〜お人ぉ〜
紫の上が歌い返す。
♪かわぁ〜い〜らしやぁ〜のぉ〜
わけがぁ〜わからぁ〜ずぅ気にぃかかりぃ〜ます〜
どんなぁ〜草ぁ〜のぉ
ゆかりぃ〜でぇしょ〜う〜
茶化す気でいたのだが、書いてみて、案外と現代に復活させてもいい気がしてきた。のんきでよい。
詩がメロディを失うというのは、別に大昔だけの話ではない。例えば、都々逸にはメロディが残っている。しかし、粋な文句として紹介するとき、今ではだいたいメロディを付けずにやりとりする。「世間へたてつく小さな意地が、ほろりとけそな秋の夜」とかね。メロディつけて唄えぬこともないが、唄うとやはり大仰になる。都々逸は今、メロディから離れて、言語のみの詩に移行する過程にあるのかもしれない(その前に都々逸が絶滅しなければ、だが)。