翻訳の限界

 最近、翻訳、言い換えれば、言葉の移し替えということについて、ちょぼちょぼ考えることがある。


 わたしも含め、日本人の多くは外国語にあまり通じていないため、外国の文物に、日本語訳したもので接する場合が多い。
 では、翻訳したものを見て、読んで、どのくらい理解したことになるかというと、いささか心もとない。


 ひとつ例を挙げてみよう。


Such stillness――
The Cries of the cicadas
Sink into the rocks.


 これ、芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」の英訳だそうである。
 ドナルド・キーンの訳だから細かい配慮もしているのだろうが(五七五に近いリズムを感じることはできる)、日本人的俳句感覚からすると、やはり、限界を感じる。


 まあ、詩歌の類の翻訳は難しい。そもそも、英語圏では音数で成り立たせる詩歌は珍しいだろうから(もっとも、Haikuの実作には、それなりに愛好者がいるそうだ)、どうしても無理はある。
 おそらく、日本人が英詩の日本語訳を読むときも、詩としての大切な部分がこぼれ落ちてしまったものを読んでいるのだろう。


 科学技術方面の機能的な文章は、翻訳しても、比較的こぼれ落ちるものが少ないんだろうと思う(訳の上手い下手は別問題)。


 一方で、言葉の微細なニュアンスやリズムを味わう文章は難しい。
 もしかすると、我々(というのは、もっぱら日本語しか解さない人間、という意味)は翻訳物を読むとき、ベートーベンを三味線と横笛で聴いているようなものなのではないか、と思うときもある。


 しかし、ごくまれに翻訳したものが原文を超越して芸術になってしまうケースもあって、例えば、こんな詩がある。


海老は死んでも
フリューゲルホーンの私は
オランダの空に否定的だった。


 山下洋輔が「ABCDEFGHIJKLMNO」を訳してみせたものである。


へらさけ犯科帳 (山下洋輔エッセイ・コレクション)

へらさけ犯科帳 (山下洋輔エッセイ・コレクション)

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「今日の嘘八百」


嘘七百四十三 正しい訳はPまでを含めて、「あぶくで吹くゲロ スケベな私 ジャックは蝋燭 マゾのプレイ」という変態マザーグースである。