日本語を使っていて、時々、なぜ五音、七音など、特定の音の数が特別な感覚を抱かせるのか、と不思議に思う。
五つの音と七つの音の組み合わせ、いわゆる五七調というのはよほど古いもののようだ。
短歌の五七五七七、俳句の五七五のほかにも、万葉の頃には長歌というのが盛んで、五七を長々続けたらしい(詳しくは知らない)。
近世に生まれた都々逸は、七七七五が多い。
例えば、有名なところでは、
恋に焦がれて 鳴く蝉よりも 鳴かぬ螢が 身を焦がす
なんていうのがある。
五七七七五の都々逸というのもあって、
弱虫が たった一言 小さな声で 捨てちゃイヤよ と言えた晩
なんていうのはいい。実にいい。わたしも言ってみたい。違うか。
いずれにせよ、五七で続けるというのが日本の伝統的な詩(歌と言うべきか)の基本である。
しかし、なぜ五七なのだろうか。三六調とか、二百八十九・三千七百九十一調なんていうはなぜないのか。
口にしたとき、感覚的にしっくり来ないから、なんていうのは答にならない。ンなことは、あたしだってもう四十年日本人をやっていて、わかっている。
そうではなくて、なぜ五七だと感覚的にしっくり来て、五七でないと感覚的にしっくり来ないのか、そのメカニズムに興味がわく。
もちろん、比喩ならともかく、日本人には五七調の血が流れているから、なんていう理由ではあるまい。そんな血液成分やら遺伝子やらがあったら、世紀の大発見。ワトソン・クリックもビックリだろう。
日本語では構文(述語が最後に来ることが多い)の都合上、韻を踏む感覚が育たなかったから、というのは消極的な理由としては考えられるけれども、だから五七になりました、とまでは言えないと思う。
音の数といえば、詩歌とは離れるが、日本語では四音というのも魔法の数字である。
正式に何と言うのかは知らない。わたしは勝手にタカタカの法則と呼んでいるのだが、長い言葉を縮めるとき、日本語表現ではしばしば四音にするのだ。
これはもう、呆れるほど例がある。思いつくままに書き並べると――。
アタボウ(あたりめえだ、べら棒め)、イタ飯(イタリア料理の飯)、ヨコ飯(横文字を使う人々≒欧米人を接待するための飯。あるいは横文字を使う人々≒欧米人の編み出した料理。あるいはヨコの関係にある同僚と食う飯)、マザコン(マザー・コンプレックス)、パソコン(パーソナル・コンプレックス。これは嘘)、ブラコン(ブラザー・コンプレックス。あるいはブラック・コンテンポラリー・ミュージック)、ミスコン(ミス何とか・コンテスト)、アケオメ(あけましておめでとう)、コトヨロ(今年もヨロシク。アケオメとセットでもう死語かも)、キモヲタ(キモいオタク)、天カス(天ぷらを揚げるときに出るカス)、天ムス(天ぷらを揚げるときに出るカスを具にしたオムスビ)、イナモト(偉大なる稲本)
最後のは嘘。
こういう音の感覚は、言葉を知らないとか、言葉が乱れているとしばしば叩かれる若い世代にも、ちゃんと伝わっている。むしろ、ちゃんとタカタカの感覚が伝わっているせいで、言葉が乱れている、と言われてしまう部分もあるかもしれない。
こういう音の数の感覚――というより、音のリズムと考えたほうがいいかもしれない――が、次の世代に伝わっていく現象というのは面白い。
何しろ、五七調については、万葉の頃から、あるいはそれよりもさらに前から、現代へと強力に伝わっているのだ。単語や言葉の用法は廃れたり、変わったりしても。
おそらく、子どもが育つ過程で、見るもの、聞くものから伝わっていくのだとは思うが、もう少し詳しく見ると、どういうメカニズムで伝わっていくのだろうか。
あるいは、なぜ我々(日本語を気軽に使いこなせる人々、というくらいの意味)は五七調や、タカタカに快感を覚えるのか。
相変わらず馬鹿のうえナマコで、おまけに行き当たりばったり(倒れるのである)なので、学問的なことは全然知らない。
ちゃんとした研究をご存じの方がいたら、ぜひ教えていただきたい。
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「今日の嘘八百」
嘘六百十二 外国語を知らない日本人ほど、日本語は世界で最も習得の難しい言語である、と自慢しがちである。