俳句というのは、ご承知の通り、五七五というのが基本形だ。
自由律俳句というのもあって、中には「すばらしい乳房だ蚊がいる」(尾崎放哉)という驚くべき作品(あるいは、驚くべきギャグ)もある。
が、やはり、こういうものはまず俳句の伝統があり、それを経て生まれるものなのだと思う。
伝統というとジジむさく聞こえるが、例えば、フリージャズはジャズのさまざまな演奏(の記憶)があって初めて生まれる。現代音楽はクラシックをはじめとする西洋音楽のさまざまな演奏(の記憶)があって初めて生まれる(のかな、実はよく知らない)。
他のジャズを知らずにいきなりフリージャズを始めても、あるいは過去の絵を知らずにいきなり絵を描き出しても、おそらくあっという間に行き詰まるだろう。つまらないものになるに違いない。
自由律俳句もおそらくは同じ。
伝統(あるいは、過去の宝庫)というものをなめてはいかんと思う。
と、筆の勢いでこけおどしておいて、ここから先はいつもの尻つぼみである。
俳句のいいところは、とにかく五七五にしてしまえば俳句に見えてしまう、ということだ。自由律俳句とは逆の考え方である。
こんな遊びがある。
3人いて、順に、最初の五、中の七、最後の五を担当する。それぞれの担当の部分をカードやなんかに書き、伏せて、置く。3つのカードを開くと、そこに変な俳句ができている、というものだ。
わたしひとりではできないが、擬似的にやってみよう。辞書をぱっと広げて、目にした言葉をもとに、白い文字で書く(携帯やRSSで読んでいらっしゃる方は申し訳ない)。
空白や
取り分ける
これは失敗した。
腰掛ける
天秤責めや
インサイダー
これも失敗か。実は村上さんが東京地検でそんな目にあってたりして。
脳腫瘍
義太夫語る
状況だ
何だかわかんない。
が、まあ、実際に3人でやると、それぞれが面白い結果になるよう、あれこれ作為をするから(例えば、「うんちかな」と入れてみたり)、言葉の偶然の出会いの面白さみたいなものが生まれる(こともある)。
おかしな状態のものから脳味噌が無理に意味を見出そうとするところは、錯視の面白さに通じるかもしれない。
こんな遊びを思いついた。
3人がそれぞれ、最初の五、中の七、最後の五を担当する、というのはさっきと同じ。
で、カードに書かずに、そのまま最初の五の部分、中の七の部分、最後の五の部分を順に言っていく。
別に伏せるわけではないから、それなりに形になるだろう。ただ、中の七の部分の人がわざと意地悪をしたり、最後の五の部分の人がウケを狙ったりするので、いろいろと変な句やバカバカしい句もできると思う。
連歌のようなものだ。ちょっと笑点の大喜利みたいでもあるが。
誰でも思いつきそうな遊びだから、すでに先人がやっているのかな。そこらは知らない。
物好きが3人揃ったら座興でやってみていただきたい。ジャンケンで担当の部分を決めるのもいいかもしれない。
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「今日の嘘八百」
嘘六百十三 学力の低下を騒ぐのは、もっぱら、もう学習させられる心配のない人々である。