リズムと翻訳

 ご承知の通り、日本の古くからの詩歌のスタイルは、七音の句と五音の句をつなぐというものだ。短歌なら五七五七七、俳句なら五七五、都々逸なら七七七五、あるいは五七七七五である。


 七五調というのは、慣れた人間には気持ちいいから、はびこっている。


 短歌や俳句でなくとも、例えば、歌舞伎のセリフ。


月も朧に白魚の 篝(かがり)も霞む春の空
冷てえ風もほろ酔いに 心持ちよくうかうかと
浮かれ烏のただ一羽 ねぐらへ帰る川端で
棹の雫か濡れ手で粟 思いがけなく手に入る百両


 三人吉三のお嬢吉三の有名なセリフ。最後の一行以外は七五、七五でとんとん続けている。もっとも、河竹黙阿弥作品はあざとい感じがして、わたしはちょっと胸焼けするのだが……。


 次のは、近松門左衛門浄瑠璃「心中天の網島」の冒頭。大坂の遊里、曾根崎新地の情景を描く。


娼(よね)が情けのそこ深き これかや恋の大海を かいも干されぬ蜆川(しじみがわ)
思い思いの思い歌 心が心とどむるは 門行灯(かどあんどう)のもじが関
浮かれぞめきのあだ浄瑠璃 役者物真似 納屋は歌
二階座敷の三味線に ひかれて立ち寄る客もあり


 ええなあ、と、思わず上方言葉で思う。「役者物真似 納屋は歌」なんて、何ということない言葉なのに、いい。浮かれた客の声や三味線の音が聞こえてきそうだ。
 浄瑠璃の節をつけて聞くと、もっといい。一杯やりたくなってくる。


 あるいは、日本語でラップの詞を書こうとすると、初心者はつい七五調になってしまうのも、面白い現象だ。


 日本の詩歌が七五の音数を基本にするのに対し、伝統的な英語の詩はもちろん、脚韻を踏むのがひとつ。これはまあ、割によく知られていますね。


 川本皓嗣「日本詩歌の伝統」によると、英詩にはもうひとつ、弱拍と強拍の組み合わせというのもあるのだそうだ。


 英詩では、弱拍と強拍をさまざまに組み合わせた二、三音節の小単位、すなわち「弱強」、「強弱」、「弱々強」、「強弱々」という四種類の雛形のいずれかを、数回反復することで一行ができあがる(臨時に「強々」あるいは「弱々」が挿入されることもある)。


 狭義の詩だけでなく、シェークスピアの戯曲も、この流儀で書かれているという。


 例えば、「ヴェニスの商人」の冒頭、アントニオのセリフは原語では、


In(弱) sooth(強), / I(弱) know(強)/ not(弱) why(強)/ I (弱)am(強)/ so(弱) sad(強).


 本当に、なぜこんなに悲しいのか、自分でもわからない。


 弱強の繰り返しで成り立っているという。


ハムレット」の有名な「To be, or not to be, that is the Question.」はどうなるのだろう。


To(弱) be(強)/, or(弱) not(強)/ to(弱) be(強)/, that(弱) is(強)/ the(弱) Ques(強)tion(弱).


 かな。
 最後が半端に余るが。


 ともあれ、英語がネイティブの人は、強弱のリズムを自然に感じ取って、楽しんでいるだろうことは推測できる。
 ちょうど我々(七五に快感を覚える人々、という意味)が近松門左衛門で、意味だけでなく、七五のリズムを楽しむように、シェークスピアで強弱の生むリズムを楽しんでいるのだろう。


 そうすると、日本語に訳されたシェークスピアを読んでいる我々(英詩のリズムの快感を知らぬ人々、という意味)はいったい、何を体験しているのだ、とも思う。
 歌詞だけ読んで、歌をわかったつもりになっているようなものなのかもしれない。


 わしら、本当はシェークスピアなんて、ほとんど、なーんにもわかってないんじゃなかろうか。



シェー!クスピア


 すいません、すいません。


 翻訳にリズムを盛り込むことはできるのだろうか。
 日本語は強弱のリズムに乏しいから、考えられるとしたら、七五調に置き換えるくらいか。しかし、それも何だか歌舞伎みたいになって、変テコになってしまいそうだ。



日本詩歌の伝統―七と五の詩学

日本詩歌の伝統―七と五の詩学

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「今日の嘘八百」


嘘七百七十六 そのとき、ボールが止まって見えた。試合がいつまでたっても終わらないので弱った。