毎日、どうでもいいようなこと、どころか、「ような」さえいらない、真正、どうでもいいことを書き連ねている。
たいがい、一日のどこかで思いついたこととか、ふと目についたものをもとに、パーパー、テキトーなことを吹くばかりである。
根っこのところでは、「何」を書くかなんて実はどうでもよくて、「どう」書くかのほうが大事なんじゃないか、とも考えている。
人生においては、「何」として生きるかより、「どう」生きるかのほうが大切なのと同じである。
――というのは、「人生」を持ち出すとミバがよくなる、という経験則に乗っとって、今、思いつきで書いてみただけである。
エエ。よく「決定的に誠に欠ける」と人から評されます。
そんなわけで(どんなわけだ?)、「何」についてでも書けそうな心持ちになって、「オホン。コレコレ、そこの者。何でも持ってきなさい。何でもかまわぬから。ウム。あー、ワシがこれからそれについて書いて進ぜよう。う〜、ヤッ!」と、カンタンにサバけるときもある。
そういうときにパッパと書いた文のほうが面白い場合が多いようだ。
いやまあ、自分で面白いと言うのもアレだが、少なくとも、そういうときのほうが勢いはある。
しかし、一方で、なーんにも書くことを思いつかない日もたまにある。もう、鼻血も出ないのだ(出られても困るが)。スランプとはこういう感覚なのだろうか、と思う。
そうなると、パソコンの前で中空の一点を見つめたまま、30分ばかり固まってしまう。ほとんど禅の修行をしている坊さんのような格好になる。
この間なぞ、あやうく悟りを開きそうになってしまったくらいである。
白状すると、今日がそうだったのだが、「書けない」ということについて書き出したら、わっはっは、ここまで引っ張ることができた。
参ったか。
あ、そうでもないですか。
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
「今日の嘘八百」
嘘二百二十四 芥川龍之介「蜘蛛の糸」の蜘蛛は、自分を見捨てたお釈迦様を、今でも地獄で恨んでいるという。