ここんところ、何となく古今亭志ん朝にまつわる本を読んでいる。
対談集も二冊あって(「世の中ついでに生きてたい」、ISBN:430926851X、「もう一席うかがいます」、ISBN:4309268765、いずれも河出書房新社)、志ん朝という人は座談が実に上手い。
読んでいると、酒をお銚子一本ばかり飲んだときのような、ふわーっといい心持ちになる。
でもって、志ん朝が何を語っていたかが、不思議と後に残らない。
これは志ん朝の噺もそうで、ああ、よかったなあ、という感じがもっぱら残る。
実にどうも妙なものである。
とはいっても、意味のないことをテキトーにパーパー喋ってるというわけではなくて、例えば、こんな一節がある(「世の中ついでに生きてたい」の江國滋との対談より)。
寄席や落語の会に若い志ん朝マニアが来るという話で――。
志ん朝 (略)いまの言い方でいえば“追っかけ”が来てて、その人たちがとにかくメモしたりするんですよ、何を書いてるんだか知りませんけどもね。そうすると、「この前あそこに行ったとき志ん朝がこういう咄をやった。あそこでもってサゲを間違えたの知ってる? 聴いた?」「いや、聴いてない」「おれ聴いたことあるの」って、それはもう自慢なんですよね。たとえばいまは上野と新宿の寄席をかけ持ちということが落語協会ではあるんです。上野をやってから新宿のトリへ行くんですが、両方をかけ持ちするお客がいるんですよ。そういうのはあんまりうれしくない。贅沢だと言われるんですけどね、そこまでこだわりを持たれるとね、つらくなるんですよね。
江國 でもそういう客はいまに始まったことじゃなくて、昔からいたでしょう。
志ん朝 いたらしいんですけど、そんなには来てなかったんじゃないでしょうか。好きでしょっちゅう来るとはいってもね。それから、昔のお客様はそういう人にかぎって遠慮がちに後ろのほうで聴いてたりしたんですが、いまは違うんですよね。昔の大学なんかの落語研究会の人たちってのは、結構後ろのほうで聴いてたんですが、いまの落ち研は一番前に来ちゃったりするんです。そこの席をお年寄りにあけてやるとか、そういうのはない。
(略)
江國 そういう人は楽屋に会いにきたりはしない?
志ん朝 楽屋にはきませんね。そのかわりに「きょうもあたしは来てますよ」というのを演者のほうに見せるようなところがあるみたいです。わざと一番前の真ん中にいてみたり。
一番前の席でメモを取る客。嫌な感じである。
立川談志なら高座から「おい、メモ取るの、やめろよ」と注意できるだろうが、志ん朝のように調子で客を乗せるようなやり方だと、他の客が興ざめになるから、注意するわけにもいかないだろう。
「『きょうもあたしは来てますよ』というのを演者のほうに見せる」という心理は何なのか。意気地のない恋心みたいなものだろうか――志ん朝からすると、妙齢の娘さんならともかく、垢抜けない男子学生だから、余計イヤだったろう。
今、この文章を書くために、対談集をパラパラめくったのだが、読み返すと、志ん朝はいろいろ興味深い話をしている。
へええ、と思うのだけれども、対談を通しで読むと心地よさが先に立つのは、語り口調なのか人となりなのか何なのか。
飲まずに酔えるんだから、ま、便利な話ではある。
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「今日の嘘八百」
嘘四百八十六 役者は三日やったらやめられないが、たいてい三ヶ月で食えなくなる。