少し前に、ブログで落語の内容的なことに触れたものを読んで面白かった試しがない、と書いた。時には通ぶって見えてイヤなものだ、と(id:yinamoto:20071029)。
そのせいで、落語について書きにくくなってしまった。自分で自分の手を縛ったようなものである。
ま、しかし、今日は書きたいんだからしょうがない。あまり気にせず行こうと思う。
相変わらず、携帯プレイヤーでよく落語を聴いている。昼間は古今亭志ん朝、夜は立川談志が多い。
電車やなんかに乗っていて、昼の明るい景色に志ん朝の落語は合う。
仕事の関係で出かけるときなんかは、気が重いときもあるが、志ん朝を聞いていると気が紛れる。楽になる。
逆に毒と凄みという点では、談志がはるかに上回る。夜の雰囲気に向いている。
もちろん、他の落語家も聴くのだが、基本的にはそんな具合で回っている。
ふと思いついたのだが、こんな言い回しができるように思う。
イヤー、今、書きながら、おれってすげえ、と自画自賛しております。
志ん朝の落語は華やかで、パーッと明るい。全編唄い調子で、ウキウキさせる。
普段からそういう人だったようで、志ん朝師匠が楽屋に入ってきただけで、楽屋が明るい空気で満たされたそうだ。世間話も高座と同じあの口調で楽しく面白く、自然にまわりに人が集まったという。
太陽的なのである。
おそらく、志ん朝の落語を聴いて、嫌いになる人はまずいないのではないか。
これから聴いてみようという人には、「愛宕山」(「落語名人会3」、ASIN:B00005G6N7)、「百年目」(「志ん朝復活 ― 色は匂へと散りぬるを[ち]」、ASIN:B000065VNL)がわたしのオススメ。文句なしに楽しい。
一方の談志のブラックホールだが、これはちょっと長くなるので、覚悟していただきたい。
以前に「わたしは談志信者ではないが〜」というようなことを書いた覚えがある。
しかし、今のわたしはほとんど談志信者になりかかっている。
最初に聞いたときは「何か、凄そうだな」とは思ったが、正直、よくわからなかった。
しかし、あれやこれやと聴き、本人の書いた本を読むうちに感染していった。
談志は筆が立つ。文章はわかりやすく、また、名調子で面白い。落語を理屈で語るのも上手い。ハハア、そういうことであったのか、と納得できる。
「落語とは人間の業(ごう)の肯定である」というのは、談志が作った有名な命題だ。
人間というのは眠ければ寝てしまうし、やっちゃいけないと頭でわかってはいても、つい他の女(男)とよからぬことをしてしまう。そういうものだと認めてやるのが落語だ、ということらしい。
理屈から入っていけるので、大学の落研なんかにファンが多そうである。ま、わたしもそのクチだ。一方で、そういう理屈っぽさを嫌う人もいるのだろう。
本のほうのわたしのオススメは「新釈落語咄」(中公文庫、ISBN:4122034191)。さまざまな噺を取り上げて、ストーリーを紹介しながら、「おれはこの噺をこう解釈する」と綴っている。
――などと書くと小難しそうだが、実際はエッセイ、肩の凝らない読み物としても楽しめる。
談志の場合は、実演と文章の両方から入っていけるわけだ。
最初はエラソーだし(半分は照れなんだと思うのだが)、何だかよくわかんなくて自分の思っていた「落語」とは随分違うし、客を怒鳴りつけるなんていう噂も聞くし、敬遠したくなる。志ん朝と違って、嫌う人も多い。
しかし、一度、その引力圏につかまると、もう逃げられない。
というのが「談志はブラックホールである」の半分の意味。エエ、まだ半分なのです。ここまで来たら諦めてください。
ブラックホールのもう半分の意味は――というより、こっちの理由のほうが大事なのだが――談志は落語にとどまらず、いろんなものから貪欲に吸収しようとする。
落語の先達たちからはもちろん、講談、浪曲、漫談・漫才等々のいわゆる色物、映画、歌謡曲、他にもあるかな、まあ、とにかく、いろんな芸の要素を取り入れては、要らないものを捨てている、と思う。
あるいは、先に書いた「肯定」のような、従来の古典落語では嫌った言葉も必要なら使うし、曖昧な言いようで申し訳ないが、落語が現代性を持つことを常に意識している。
その吸い込みぶりがブラックホール的だと思うのだ。
マ、一番の理由は怖いからなんですけどね。
志ん朝師匠が楽屋に入ってくるとパーッと空気が華やいだが、談志師匠が入ってくると緊張感が走り、気の弱い前座なんぞジョーッと失禁する。
そういうわけで、「志ん朝は太陽であり、談志はブラックホールである」。
ンー、やっぱり、こういうことを書くと、通ぶって見えますか。
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「今日の嘘八百」
嘘五百八十六 恋に破れてから当てつけに努力して美しくなる人を「見返し美人」と呼ぶ。