ここんところ、週末の夜はDVDで「落語研究会 古今亭志ん朝全集(上)」を見ている。
実に華のある芸で、独特の唄い調子も楽しく、酒を飲みながら見ているだけでシヤワセになれる。
古今亭志ん朝は2001年に63歳で亡くなった。
志ん朝を含め、立川談志、三遊亭圓楽、春風亭柳朝の4人はかつて東京の落語の若手四天王と呼ばれた時代があったという(後に柳朝に代わって、月の家圓鏡=今の橘家圓蔵が四天王のひとりとされる)。
いずれも昭和二十年代に入門している。それぞれ強い個性があり、特に談志と志ん朝は後輩への影響が大きい。
上記、四天王とされる人々より後の世代からは大物がほとんど出ていない気がする。
時々、落語の会に行くのだが、特に若い落語家、といっても、四十代より下は何かこう、こぢんまりとまとまって、窮屈な印象を受ける。
おそらく、談志、志ん朝が入門した昭和二十年代は戦争の影響で若手の落語家が少なく、己の才覚と工夫をたよりに独自の芸を作り上げやすかったのだろう。
これは落語に限らず、他の芸能、芸術、あるいは学問、技術の分野でも、勃興期には同じことが言えるように思う。ポイントは、その分野に関わる人数だ。
人数が少ないときには手つかずのことがたくさん目の前にあるから、どんどん思い切った試みができ、また、それが結実しやすい。失敗したって、「ああ、そうか、そいじゃこうやってみたらどうか」と別の試みをしやすい。
何というか、怖い物知らずでどんどん行ける。
ところが、人数が増えてくると、ひとりあたりに許される場所は狭く、多くのことがすでに試みられている。区画整理がされていて、いる場所がすでに窮屈なのだ。
その分野から利益を得ようとする人も増え、パイの奪い合いみたいなことも起きる。
ビートルズやビーチボーイズ、ジミ・ヘンドリクスがあれだけのことをできたのは、やはり、ロックというものがうさんくさく捉えられていた60年代だからこそなのだろう。
70年代に入ると、個性的なバンドやミュージシャンは登場するが、巨大さや偉大さはあまり感じさせなくなった。
80年代になると、方法論に乗っ取って、どうやって個性を売るか、みたいな、こんまいことになってしまった。
これ、たぶん、絵でも、芝居でも、あるいは遺伝子工学やインターネットなんかの技術・サービスでも同じだと思う。
上方落語のことはあまり知らないが、やはり、戦後に上方落語四天王と呼ばれた人達がいると聞く。
桂米朝(三代目)、笑福亭松鶴(六代目)、桂小文枝(三代目。後の桂文枝)、桂春団治(三代目)で、世代は東京の四天王より少し上くらい。
こっちのほうが大変で、何しろ、昭和二十年代、彼らがまだ二十代か三十そこそこの頃、上の世代の現役落語家がほとんどいなくなってしまった。
米朝は、当時のことをこんなふうに語っている。
戦後まもなく五代目(稲本註:笑福亭松鶴)と、私の師匠(稲本註:桂米團治)、そして二代目春団治が相次いで他界したんや。まだまだ若手やった私らは愕然としました。
(「米朝よもやま噺」より)
五代目松鶴が亡くなったのは1950年。米團治が亡くなったのは1951年。六代目松鶴が33歳、米朝が26歳で、ともに正式に入門して、わずか4年。
東京の落語でいえば、前座からようやく二つ目に上がったくらいの年で、上の世代の現役落語家がほとんど亡くなってしまった。
係長以上がいきなり全員亡くなって、入社5年にも満たない若い社員だけで会社を再建しろ、というようなものだろう。
よくまあ、上方落語を今の隆盛にまで導いたものだと思う。
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「今日の嘘八百」
嘘七百六 聖火を無事に北京に届けるには、ダライ・ラマが持って走るのが一番よいと思う。