可朝の米朝評

 少し前に柳家小さん桂米朝立川談志のCDボックスを買って、今は順繰りに聴いている。どんなに好きな落語家でも立て続けに聴くと飽きてくるから、このローテーション方式はお勧めである。
 ついでに、雑誌ユリイカ米朝特集号も買った。2015年6月号だから、米朝の追悼だったのだろう。
 その中に、月亭可朝のインタビューがあった。これが面白いのだ。
 月亭可朝はその昔、カンカン帽にちょび髭、ギターを抱えて、「〽ボインは〜、赤ちゃんが吸うためにあるんやでェ〜」とやって一世を風靡した。米朝の一番弟子なのだが、その前に別の師匠から破門され、米朝が拾って弟子にしたという経緯もあってか、惣領弟子にはなっていない(米朝一門の惣領弟子は桂ざこば)。
 インタビューの中から印象的なところを抜き書きする。

冷静に考えてみると、米朝の落語というのは江戸落語にもっともよく似た上方落語なんですよ。(…)大阪のイメージのクサいやり方ではなく、品があって江戸落語に似ている。(…)江戸落語にもっともよく似た上方落語米朝が亡くなったという捉え方が必要やとわれわれは思うわけです。江戸落語には江戸の風味が効いている。浪速の上方落語も大阪の文化のなかに染み込んでいる。どっちがいい悪いは好みですよ。米朝はたまたま江戸落語によく似た上方落語家やったと、言うてみたらそれだけのことや。そこにファンの方が注目し、取り上げ、同時に人間国宝にも祭り上げられ、勢いで文化勲章にも恵まれた。これはまあ米朝師の運やね。

 可朝は、冷たく突き放しているように見えるくらい、客観的に米朝の落語を捉えている。
 米朝満州で生まれ、姫路で育った。父親に連れられてよく大阪の寄席には行っていたそうだが、二十代になるまで大阪に住んだことはない。学校は東京の専門学校・大東文化学院に進んだ。その頃、盛んに東京の寄席通いをしていたそうだから、生の落語の体験はあるいは東京の落語のほうが濃密だったかもしれず、可朝の言う「江戸落語に似た」はそういう下地から来ているのかもしれない。

米朝が死んだことによって江戸落語にいちばんよく似た大阪落語が消えただけや。ほんならいわゆる浪速、大阪の上方落語というのはなにかと言うたらけっきょくは初代桂春団治やね。だみ声で「野崎詣り」や「へっつい盗人」をやって、笑いを多く取る。お客さんをのせたら終いまでウワーッと場内をひっくり返すようなやり方の落語、これが大阪の風味をもった落語と言えると思うんですよ。

 米朝と可朝の間柄は、年が割に近いせいか(十三歳違い)、プライドの問題なのか、性格、あるいは弟子になった経緯のせいなのか、なかなかに微妙だったようだ。その後の米朝の弟子の、枝雀やざこば、吉朝米朝を尊敬し、父のように慕ったのとは違う。

当時の米朝師匠のところにはおむつをしている子どもが三人おったんですよ。長男と次男が双子や。そのおむつを替えるのは弟子の仕事やったのに、僕はそれができなかったんや。枝雀くんとざこばくんはずっとおむつを替えてとやってたけども、僕はそれやれ言われたらもう辞めて家に帰りますわ。(…)いつの間にやら師匠はおむつを替えてる弟子たちに「あいつはどうしようもないやっちゃ」ということを言うて、世間にもそんなことを言い出したんや。終いには「あれはわしの弟子やない」とまで言うたけども、「ああ、けっこうですよ」と僕は思うとった。
(…)
 師匠のところで鞄を持ってついている間は家では僕に落語を教えませんねん。家では枝雀くんとざこばくんがおむつを替えたり、哺乳瓶で乳を飲ましたりしとるわけやから、そこへもってきてなにもせんとぶらぶらしている僕に落語を教えるわけにいかんのですよ。だから外に鞄を持って出たときにどこかの小さい安い宿屋の部屋を借りて、そこで教えてくれた。外に出たらたいがい稽古もついてましたから、それはほかの弟子には言わずに僕と師匠の間だけやった。

 可朝の矜持。

 僕の芸は誰からもらった芸でもないし、教わった芸でもない。自分で発想した芸でやってきたわけやから、それは自分でも誇りはもっとる。なにという賞ももろてないけど、ヒット賞はもろとる(笑)。これは誰の影響とかおかげとかいうこともないし、自分で獲った賞や。ふたつもろてるからね、欲を言えばキリがないし、それでええんとちゃいますか。

 破天荒な芸や行動で知られる可朝だが、理性的でとても頭のいい人だと思う(そこは米朝に似ているかもしれない)。
 調子に乗ってだばだば書き写してしまった。米朝、あるいは可朝に興味がある人には、少し前の号だけれども、お勧めします。

参考動画: