桂米團治襲名披露公演

 先週、桂小米朝改め桂米團治襲名披露公演に行ってきた。


 口上には、師匠であり、父である桂米朝師匠も並んだ。御年八十を超え、あるいは春の骨折の影響もあるのか、正座するだけでも大儀そうだった。
 しかし、自らの師匠である米團治の名を息子に継がせることを、大きな責務と考えていたのか、表情は何か、ホッとしているようにも見えた。


 新しい米團治はこれからが大変かもしれない。


 エラソーなことを書いて恐縮だが、これまで小米朝の高座を見るたびに、“この人はとりあえず合格点を取ることを目指しているのだなあ”と感じた。
 大当たりか大外れか、イチかバチかの勝負を挑むよりは、満遍なく、七十点くらいを取ることを目指す。そんなふうな高座に思えた。


 巨大な存在の米朝の息子として、恥ずかしい高座もできないというプレッシャーでそんなふうになったのでは、と、勝手に想像している。


 しかし、米團治を継ぎ、米朝一門の中心的な柱となるポジションに追い立てられ、また米朝の厖大なレパートリーのうち、品のよい噺を受け持つ空気の中に置かれて、もはや合格点を目指す、ではいられなさそうだ。


 この人の明るさ、華やかさは天性のもので、ちょっと他に似たタイプの落語家を思いつかない。
 落語に出てくるご大家(ごたいけ)の若旦那そのままで、実際、祗園あたりにはいろいろ面白い話があるらしい。


 ぺらっとした若旦那に、陰影や凄みがついて、大旦那に変身できたら、誰も真似できない素晴らしい個性の落語家になれるんだろうなあ、と思う。


「百年目」の大旦那みたいに、若い時分は親のお金で遊び呆けて勘当され損ない、でも今は風流人でありながら、店の見るべきところをしっかり見ている。自然に風格もついた。そんな存在。


 言うほうは気楽だし、勝手な願望だが、そういう落語家を我々は将来目にできるかもしれない。