志ん朝と三平さんとプロフェッショナルとマニア

「プロ」「プロフェッショナル」という言葉には独特の磁力と求心力があるようで、少なくとも日本語の言語感覚世界では高い位置に置かれている。「まさにプロの仕事だ」「あいつはプロフェッショナルだね」という言い方はたいがい褒め言葉であるし、「プロフェッショナル」という言葉にはカッコよさがある。
 じゃあ、「プロフェッショナル」というのはどういう状態の人を指すのだろうか。単にお金をもらって仕事をするだけなら、コンビニのバイトは全員プロフェッショナルということになる。そうではなくて、おそらくコンビのバイトにもプロフェッショナルとそうでない人がいるだろう。
 古今亭志ん朝が落語「百年目」のマクラでこんな話をしている。

いろんな商売で、自分の商売が大好きだという方は一番幸せなんですナ。よく考えてみると、やっぱり自分が今やっている商売というのは誠にありがたい商売だな、と、あたくしなんぞはつくづく思いますけれども。……ただ、なんかこれで、人の前へ出てなんかやらなきゃア、のんきな商売なんですが(会場笑い)。そうはいかないんですね。これはあのォ、芸の好き嫌いということ、あるいは、人の前へ出てなんかやるというのが好きな方といろいろです。おんなじ噺家のなかでも、とにかく高座へ出たくてしょうがない、人の前へ出てなんかやりたがる、なんという人もいる。こういう方は本当に疲れというものを知りません。ネ。とにかく楽しくてしょうがないんですから。(中略)エー、亡くなった先代の円歌という師匠が、この方はやっぱり人の前でとにかくなんかやりたい。ンー、踊りをおどる、歌をうたう、もういいよと言われてもやりたがる。それからやっぱり、ついこの間亡くなりました三平さん。あの方がやっぱり、人の前でどんどんどんどんやりたがる。そのほうがやっぱり楽でしょうね。だから、いくらでもオアシが稼げるんじゃないかと思いますナ。ンー、あたくしも芸は嫌いじゃあないんですけれども、これで人の前でやらなきゃなおいいと思っているぐらいで。そこんところがやっぱりちょっと違うんでしょうね。

 軽妙に話しているけれども、これは志ん朝の本音だと思う。
 言うまでもないことだけれども、志ん朝の高座はレベルが高い。また、お客さんの期待に対して、一定以上の満足度を与える。オアシをいただくお客さんに対して、それに値するもの、あるいはそれ以上のものを渡して帰っていただこうとする点でまさにプロフェッショナルだと思う。この意識がプロフェッショナルの第一の条件だろう。
 逆に、お金と芸(というサービス)を引き換えるというドライな関係を離れると、志ん朝は割にお客さんに対して冷淡だったようだ。誰かのブログでこんな話を読んだことがある。その人がまだ子供の頃、志ん朝の高座を見て、サインが欲しくなり、親と一緒に楽屋を訪ねた。志ん朝が目の前にいて、サインをお願いしたのだが、ツン、とあらぬほうを見ている。楽屋にいた別の落語家が口をきいてくれて、ようやくサインをもらうことができた――まあ、志ん朝としては、高座でできるかぎりのことはしたはずだ。疲れて戻ってきた楽屋にまで押し掛けられ、サービスさせられるのはかなわない、ということだったのだろう。
 これが、上記のマクラにも出てくる三平さん(先代)だったら、どうしただろう。快くサインを引き受け、頭をなで、ギャグの2つ3つはやってみせたんではないか。最後には、ついてきた親御さんにまで、「ホント、体だけは大切にしてくださいヨ」などと言いながら、手を握りしめたんじゃなかろうかと想像する。
 おれは、志ん朝の割り切り方が「プロフェッショナル」で、三平さんはいわば「マニア」だと思う。三平さんの場合は、人にサービスをして喜ばせること、あるいは喜ばせている自分が好きで好きでしょうがなかったのだろう。これは、お金とサービスというドライな関係に基本を置くプロフェッショナルとは違う態度である。あることが好きで好きでたまらず、損得抜きで自分の時間をつぎ込んでしまうという態度は、プロフェッショナルではない。マニアである。どちらがいい悪いではない。芸と客についての構え方が違うんだろう。
 プロフェッショナルのカッコよさとは、ドライな関係をよしとするハードボイルドなカッコよさだと思う。いわば、ゴルゴ13の構え方だ。明るく陽気な太陽のごとく見えて、志ん朝にはおそらくそういう面があった。志ん朝はゴルゴ的なのである。
 一方の三平さんはサービス・マニアだ。もしヒットマンの道を歩んでいたら、「どーもスイマセン」などと言いながら、ライフルを無差別に乱射したんじゃなかろうか。