ビートルズ=落語四天王説

 新潮文庫の「人生、成り行き―談志一代記―」を読んだ。

人生、成り行き―談志一代記 (新潮文庫)

人生、成り行き―談志一代記 (新潮文庫)

 談志の書いた本は結構読んでいるので、知らなかったことはあまりなかった。奥さんとの関係や、小さん師匠とのエピソードがいくつかくらいだろうか。しかし、知っているエピソードであっても、談志師匠の語り口であらためて読むとやはり楽しく、面白い。

 あらためて考えると、テレビ時代以降の落語界の流れは、談志・志ん朝の関係がひとつの軸となって展開してきたと言えそうだ。円生が落語協会を飛び出したときも実際の駆動力となったのは談志と志ん朝であるし、談志が落語協会を出て立川流を立ち上げたときも遠因のひとつは志ん朝との関係にあったようだ。

 談志は志ん朝より先に入門しているが、先に真打ちになったのは志ん朝だった。落語協会の序列は真打ちになった順番で決まるから、どちらが先に真打ちになったかは一生ついてまわる。談志は落語協会、ひいては東京の落語界の主導権を握りたかったのだが、そうなると、常に志ん朝の存在が問題となるのだ。たとえば、談志と志ん朝が円生を担ぎ上げて落語三遊協会を作ろうとしたとき、談志は絵図を書いて実権を握ろうとした。しかし、円生が「いや、リーダーは志ん朝でげす」と指名したため、それでは意味がないと談志はさっさと落語協会に戻ってしまった。はしごを外されて円生は孤立。組織や興行のマネジメントが不得手な志ん朝も泣く泣く落語協会に戻らざるを得なくなった、ということのようだ。

 図式的に捉えれば、まあ、そういう形になるのだが、談志と志ん朝の実際の関係というのはなかなか複雑微妙だったようである。看板が先といっても、志ん朝は談志を「兄(あに)さん」と立てている。談志も志ん朝の芸を全然自分とは違う方向のものとして認めているし、その人柄も嫌いではなさそうである。一方で、先に書いたように談志にとって志ん朝の落語界におけるポジションはしばしば障害となり、志ん朝にとっても落語三遊協会のときの裏切られたという感覚がわだかまりとなったようだ。

 談志と志ん朝の関係というのはビートルズジョン・レノンポール・マッカートニーの関係によく似ていると思う。リクツ的なものを作品(落語、曲)の中に取り込むことを躊躇しない談志とジョン・レノンに対して、伝統的・保守的な感覚を重視して、リクツ的なものを持ち込むことを野暮と捉えているであろう志ん朝ポール・マッカートニー。談志とジョン・レノンはラディカルだから客・聴衆の中には違和感や反感を覚える人も少なくないが、志ん朝ポール・マッカートニーはとにかく客・聴衆を心地よくすることを考える。じゃあ、ふたりの仲が悪いのかというと、時期的な反目はあってもお互いの実力は認めているし、彼らにしか本当のところはわからない思い入れもあるようだ。時折上から目線でいささかの愛情とともに小馬鹿にするという点で、談志とジョン・レノンの、志ん朝ポール・マッカートニーに対する態度は共通する。ジョン・レノンは「ポールの悪口を言っていいのはおれだけだ。他のやつが言うのは許さない」と言っていたそうである。

 ジョン・レノン=談志、ポール・マッカートニー志ん朝なら、かつての落語四天王ジョージ・ハリスンが円楽で、リンゴ・スターが円鏡(今の円蔵)かというと、よくわからない。隔絶した二強(談志と志ん朝)の近くでおそらくはコンプレックスを感じながら取り組んだという点で円楽はジョージ・ハリスンに通じるようにも思うし、天然で人から愛されるという点で円鏡はリンゴ・スターに通じるようにも思う。ちょっとこじつけかな。

 まあ、しかし、談志と志ん朝は落語という個人芸だからある時期までは一緒の楽屋にいられたわけで、共同作業で何かを作るとなると芸の方向性・好みの違いと愛憎が入り乱れて、なかなかうまくいかないだろう。ビートルズの後期にメンバーが反目しあって結局解散に至った事情は、談志と志ん朝が一緒のバンドで曲作りをしたらどうなるか、ということを想像してみればわかると思う。