学校で教える

 学校で知識や物の考え方を教えるという仕組みは、基本的に結構なものだ。


 ただ、子ども達に何かが足りない、となるとすぐに、じゃあ、学校で、という話になりがちで、それはちょっと安易なように思う。


 道徳とか愛国心を教えるというのも、まずは慎重に取り組んだほうがよさそうだが、それについてはさんざっぱらあちこちで議論されているようなので、えー、そちらをご覧ください。


 わたしが気にかかるのは、芸術、芸事、技芸、表現にまつわることで、ひとつには、この手のものは一束四十人で教えるのに向かない、という理由がある。


 もうひとつは、生徒の中には、学校の机に座って教わったものに抵抗感を覚えるヤツがいるからで、ありていにいうと、わたしがそうだった。


 前にも書いたが、わたしはクラシックにいまだに抵抗がある。学校で「これぞ、高尚なゲージュツ! 何と素晴らしいものでしょう!」と押しつけられたせい(もあるの)だと思っている。


 まあ、一方で、学校でクラシックに出会ってその素晴らしさに開眼した、という人もいるだろうから、ここらの案配はなかなかに難しい。


 例えば、次のような意見、さてどうだろう。


 昨日も引用した古今亭志ん朝の対談集「世の中ついでに生きてたい」(河出書房新社ISBN:430926851X)から、作家/仏文学者の荻野アンナとの対談。


荻野 (略)あらゆる国の文化の構造には、表と裏があるわけで、私は“お”と“ど”を使うんですけど、フランスでも“おフランス”と、“どフランス”が共存しております。
志ん朝 ハハハハ。
荻野 おフランスのほうは、それこそフランソワーズ・サガンだなんだっていうんで、我々よく知っております。(中略)かたやしっかりとどフランスがあって、ラブレーなんかもどフランスの根っこですけども、大いに飲みかつ食らい、笑うという文化。
志ん朝 日本にも、おジャパンとどジャパンがある。
荻野 川端、三島っていうとおジャパン。とても結構でございますが、反対側には、笑う日本もあるんじゃないかと。
 外国の方も誤解してますけど、外国の方が描く日本文化像を、我々が安易に受け入れている節があって、その結果として、今のガキ、いえお子さま方はご本をお読みにならない。教科書に落語を載せてカセット付けるのも手じゃないかナと思いますけど。


おフランス”と“どフランス”、“おジャパン”と“どジャパン”があるという意見は、言い回しもわかりやすいし、その通りだと思う。でも、その“どジャパン”のほうって、なかなか学校では教えづらいと思うのよね。


 学校の机に座って(我ながら学校の机にこだわるね。座ってるのが苦痛でたまらなかったのヨ)、落語の録音を聴いたって、もうその状況だけで随分と落語がつまらなく感じられると思う。


 もっと困ったことに、学校で“どジャパン”を教えようとすると、去勢されて、中途半端な“おジャパン”になりかねない、ということもある。
 落語「目黒のさんま」の最後に出てくる、脂、骨を抜いた謎のサンマ料理みたいに。


 同じ対談集から中村勘九郎(現・勘三郎)との対談。


勘九郎 (略)高校生のための歌舞伎鑑賞教室というのを毎年夏に国立劇場でやってますけど、『石切梶原』なんていうのを観せても理解に苦しむと思うんだ。すると国立側は千人に観せて百人の歌舞伎愛好者を作るって言ってるけど、ぼくは逆に九百人に歌舞伎離れさせてるような気がする。
志ん朝 うーん……。
勘九郎 ぼくは昔、そこで『忠臣蔵』の五、六段目の勘平をやったんですよ。いきなりこんなもの観せたってわかるわけないですよ。やってるうちにだんだんお風呂屋さんの中で芝居してるみたいになっちゃった。
志ん朝 ハハハハ。うるさくて。
勘九郎 陰々滅々としてるし、動きは少ないし、腹突いてから「いかなればこそ勘平は……」て長台詞。向こうは早く死にゃあいいのに、って顔で見てるからこっちもやりたくなくなる。もっと目先の変わった派手なものにすればいいんですよ。


 さすが、勘三郎。よくわかっていらっしゃる、と思う。


「逆に九百人に歌舞伎離れさせてるような気がする」。これ、学校で何か表現にまつわるジャンルを紹介するとき、よくよく気をつけなければならないポイントだろう。


 関係ないが、その“お風呂屋さんの中で芝居してる”勘三郎、見てみたかったね。


 一方で、勘三郎(当時、勘九郎。ややこしいな。こないだ、六引いたんだ)は成功体験についても語っている。コクーン歌舞伎の話。


勘九郎 (略)女子高校生の子が団体で観に来てね、『盟三五大切』という鶴屋南北の芝居だったんだけど、ぼくと橋之助が源五兵衛と三五郎の役を日替りでつとめたんです。その日は橋之助が殺人鬼の源五兵衛の役で、ぼくはいいほうの三五郎。初めのうちはみんなおとなしく見てたんだけど、源五兵衛が女と赤ん坊殺して、血だらけになって客席へ出てくるとザーッと雨が降ってくる。
志ん朝 客席へ雨が?
勘九郎 そう、お客はポンチョ着てる(笑)。そこへ橋之助が来かかると、高校生たちが、「こっちへ来んなよー」とか「夢に出ちゃうよー」とか大変な騒ぎ。それでカーテンコールになって、俺が手を振ったら女の子たちもみんな手を振ってくれた。次に橋之助が手を振ったら、女の子たちがいっせいに手を下に降してシーンとした。つくづくこの日、源五兵衛でなくてよかった、と思いましたねえ(笑)。


 演目と趣向が大事ってことだろうか。その女子高生達、橋之助が夢に出てくるかもしれないが、歌舞伎の“何だか凄い体験”の記憶は残るだろう。


 でも、こういうの、学校に任せるとうまくいかないと思うんだよなあ。
「そういう派手でダイナミックな歌舞伎を見せたほうがいいんだ」と主張する先生がいたとしても、「でも、赤ん坊を殺す芝居は、いくらなんでもまずいでしょう」という意見が大勢を占めて、結局、無難な――ということは生徒達には退屈な――演目になりそうだから。


 漠然としたことしか言えなくて申し訳ないのだが、こういう芸術、芸事、技芸、表現方面への入り口を開くには、学校以外の仕組みを作ったほうがうまくいくかもしれない。
“教育”なんていう、ものすごいものを持ち出さないようにして。

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「今日の嘘八百」


嘘四百八十七 愛国心を教えるために三島由紀夫の「憂国」を教科書に採用したら、子ども達が大コーフン状態に陥って、大変なことになったという。