「名は体を表す」という言葉がある。名前は、実体がどういうものであるかを示す、というような意味だ。
まあ、そういうケースもあるのだろうが、一方で、「名は体を作る」とか、「名は体を感じさせる」ということもあるんじゃないか。
たとえば、昨日、ちらりと触れた中村勘三郎の本名は、「波野哲明」というのだそうだ。
ここにある写真も、「中村勘三郎」ではなくて、「波野哲明さん」と思いながら見ていると、何となく、違ったふうに見えてくる。
まあ、あまりに有名で、歌舞伎役者の中の歌舞伎役者、という存在だから、どうしても「勘三郎(あるいは、勘九郎)」というふうには見える。
それでも、「波野哲明さん、波野哲明さん……」と念じていると、役者とは別の、母親のお腹から出てきて、小学校にランドセルを背負って通い、オムライスを食っていた、と、そういう一面も見えてくるのだ。
逆のやり方をしてみよう。
以前、冗談で撮ってもらった写真がある(Photo by Tariho Nishimura)。
稲本喜則
特に何ということもない。世の中をナメている馬鹿男というだけだ。
しかし、名前を変えただけで、見え方は随分変わってくる。
十八代目片山仁右衛門
「十八代目片山仁右衛門」なる人物が何者なのかはわからぬが、何かの伝統を背負った特別な位置にいる人、に見えてくる。
将棋界でやってみよう。
升村康三永世名人
何かこう、立派な業績を残した人に見える。さぞ強かったのだろう、と思わせる。
創業者岩崎弥三郎
社史の冒頭に出てきそうだ。
国木田紅葉
文豪、である。
郷ひろみ
さすがに、無理がある。