芸能の芸術扱い

 ここ十年くらいよく落語を聞いている。一時はよく落語の会にも出かけていたのだが、最近はもっぱら携帯プレーヤーで聞くばかりである。

 落語の会に行かなくなった理由はいくつかあるのだが、ひとつは上品な感じの会が多くて、何となく居心地が悪いということもある。「落語というのは結構なものだから、鑑賞に参りました」というふうな客が多いと、笑い声も上品なふうになり、くだけた感じにならない。それはそれで別に悪いことはなく、単におれの好みではないというだけである(その点、横浜のにぎわい座なんかはくだけた感じの会が多くて、好きだ)。

 芸能の鑑賞というか、芸術化というのはなかなか難しい問題で、やる側からすると、格の上昇志向のようなものがあるのだと思う。また、落語の一部には作品として素晴らしいものもあり、そこの部分を芸術として認め、賞賛したいということもあるだろう。しかし、そこばかりが行きすぎて、鑑賞方面のホホホホ的笑いとなると、何だかな―、おれの好きな落語のざっくばらんなところとは違うな―、とまあ、あくまでおれの好みなんだが、そうも感じる。

 古典落語という言い方は、戦後に広まったらしい。それまで寄席という安い場でやるものだった落語を、作品鑑賞の舞台としてホールでやるようになり、噺家も厳選し、演じる噺(作品)も厳選し、客も鑑賞の場として行くようになった。噺家にとっては晴れの舞台であり、見に行く側としても発見のあるよい場だったのだろう。しかし、それが主となって、NHKの芸術鑑賞番組みたいなところで上品なアナウンサーが、解説者に大げさに感心してみせるような具合になってくると、芸能としてのくだらない素晴らしさがないがしろにされていくようにも感じる。おれなんぞは、くだけたくだらないなかに、ちらっと深いものが見えるような見えないような、というところがいいと思うんだけどなあ。

 この芸能の芸術化というのは落語だけの問題ではなくて、たとえば、歌舞伎なんかも抱えているようだ。明治の頃か大正の頃かよく知らないが、たぶん、歌舞伎の上昇志向、芸術として認めてもらいたい、というような動きがあって、今では格の高い感じになってしまった。中村勘三郎なんかはそのことに違和感を覚えていて、また父親のやり口なんかも見ていて、わざと大衆化しようと頑張っているようだ(ただ、おれ自身は、ちょっと田舎芝居的な臭みが強すぎるかなと感じてもいる。もうちょっと粋なふうだとよいのだけど)。

 文楽なんかはもうすっかり芸術というふうである。浪花節は、戦前に流行った頃は大衆芸能の中でも下層のほうで、旧来の芸能の演者達からは随分と馬鹿にされたらしいけど(講釈師の中には浪花節語りとは同席しないと宣言していた者もいたそうだ)、今では下手すれば芸術鑑賞的に扱われてしまう。また、演者の中にもそういう扱いを心地よく感じるところもあるかもしれない。

 しかしまあ、芸能の命というのは、芸術鑑賞扱いだけだと死んでしまうところもあるような気がするし、といって下卑た客へのすり寄りだけではそれはそれでダメになってしまうところもあるだろうし、そのあたりの案配は、まあ、結局個々の演者の考え方とスタイルの問題になるのだけど、なかなか難しいな−、と思う。