クロップさん

 サッカー・プレミアリーグリヴァプールユルゲン・クロップ監督が今シーズン限りでの退任を発表した。

 おれが知ったのは先週の日曜夜だった。スマホをぱらぱら見ていて、突然、「退任発表」というニュースが目に入った。ショックだった。

 クロップ監督の偉大さはいろいろある。

 戦術面では、まず前線からの激しい守備がある。ドイツ時代には「ゲーゲンプレス」と呼ばれていて、クロップ本人が「ヘビーメタルだ!」と言っていたほど、クレイジーな追い回し方だった。もちろん、選手の消耗は激しい。しかし、前線でボールを奪えば、即カウンターにつながるし、ボールが奪えなくても相手チームは思ったところにボールを運べなくなる。

 リヴァプールの監督に就任して、チームが成熟するにつれ、パスをつないでボールを保持することにも取り組むようになった。グアルディオラ監督が洗練させたポゼッション戦術を取り入れたものだと言えるだろう。今のリヴァプールはポゼッションとカウンターを試合の局面に合わせて使い分けている。

 両サイドバックの攻め上がりも特徴だ。右サイドバックのアレクサンダー・アーノルドと左サイドバックのロバートソンがゴールライン間際まで攻め上がり、クロスをあげて、得点に結びつける。守備はその分、危険にさらされるので、これまたクレイジーだが、リヴァプールはリスクをとって得点を狙う。このやり方がうまく行くのは、後方のファンダイクやGKのアリソンの巧妙な守備があるからこそでもある。

 選手の頻繁なポジションチェンジも特徴で、たとえば、前線がサラー、ヌニェス、ルイス・ディアスだとしたら、この3人が入れ替わる。右のサラーや左のルイス・ディアスがいつのまにか真ん中でプレーしていたり、左右の目入れ替わっていたり、真ん中のヌニェスが右、左に位置したりする。相手はマーキングが混乱し、その隙をついて、ゴールに襲いかかる。

 クロップはモチベーターとしても優秀だ。選手に火をつけるのが上手い。試合中は全身で喜びを表現し、不服な判定には怒りをあらわにして抗議する。スタジアムのサポーターを煽り、ホームのアンフィールドは爆発的なムードに包まれる。

 そして、なんといっても人柄が素晴らしい。人格者である。

 退任発表後にサポーターに向けたメッセージ。

 

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「(サポーターに)もう一つのお願いですが、私への応援チャントをあまり早く歌わないでほしいです。いつも大きな声でスタジアムを埋め尽くしてくれますが、『これを私に対するものにしないでほしい』ということです」

 泣けてくる。クロップがリヴァプールのサポーターと結んだ紐帯は強い。これほどイギリスで愛されたドイツ人はいないのではないか。

環境に負荷をかけながら自然を愛するのココロ

 パタゴニアの創業者、イヴォン・シュイナードの「社員をサーフィンに行かせよう」を読んだ。

 

 

 イヴォン・シュイナード、あるいはパタゴニアの一貫性はさすがである。環境に対する影響を最小限にとどめ、環境についての啓発活動を推し進める。存続のためには当然、利益が必要だが、単に利益を追求することではなく、究極的には環境保護に対する活動を行うためにパタゴニアは事業をしている。

 イヴォン・シュイナードはもともとクライマーで、ある岸壁を登ったとき、岩にたくさんのピトン(ロープをつなぐための杭のようなもの)が残されていることに疑問を持った。自然を愛して山に登っているのに、その自然を壊してしまっている。そこから岸壁への負荷の少ない登山道具を開発した。その後、ウェアに着目してパタゴニアの事業をスタートさせた。

 わかりやすいストーリーである。パタゴニアの本気度にも疑いはない。一方で、おれには少し引っかかるところもあった。

 おれは山に登らない。自分のやらないことには手厳しくなりがちで、なんでわざわざ苦しい思いをしてまで山に登らないといけないのだと思う。が、もちろん、その苦しさ以上の喜びや楽しさが、登山をする人にはあるのだろう。おれは釣りもしない。余分な殺生をしたくないというのもある。

 アウトドアにはほとんど興味がなく、せいぜい自転車でそこらへんを走り回るくらいである。東京近辺の川や公園を走る程度だから、まあ、アウトドアとは言えない。

 でまあ、そういう非アウトドアの人間だから思うのだろうが、環境保護を重視するクライマーというのは一方で矛盾を抱えていないかとも思う。彼らは山に向かうとき、全行程を歩いていくわけではあるまい。おそらく、近くまではクルマで行くはずだ。ガソリンをがんがん燃やして、CO2を排出しながら山まで行く。そうして、環境は大切だ、と主張する。パタゴニアの服を買って。だったら山なぞ登らず、クルマにも乗らずにいたほうが害は少ないのではないか。

 もっとも、そういうふうに突き詰めていくと、家でじっとしていろ、なるべく息も吐くな、となってしまう。そうまで言うつもりはないが、ちょっと引っかかるのよね。

アニメが苦手だ

 おれはアニメが苦手で、出くわすとげげげげげと拒否感が全開になる。

 なぜそう嫌いかというと、ひとつには嫌いのなかでも毛嫌いというやつで、嫌となると徹底して嫌になるというおれのよくない性格のせいもあるかもしれない。

 しかし一方で、嫌いの理由を分解できるとも思っている。

 まずはアニメの子供っぽさが嫌ということがある。絵が、いかにも可愛いでしょ、という流れから生まれていて、たいがいのアニメの絵は子供っぽい。演出も子供っぽい。特におれが苦手なのがロリコン系の絵で、これはアニメから生まれて、今ではイラストの分野まで侵食している。ネットの広告で顔はロリロリなのに、胸が巨大なアニメ絵に出くわすことがある。げげげげげである。パフェにアイスクリーム盛り盛りみたいなのが夢のスイーツというような子供っぽい発想がたまらなく嫌である。

 演出の大仰さも嫌である。とにかく表現、動きが大仰である。二十代の頃まではそれでも宮崎駿のアニメ映画を見ていたりしたのだが、あるとき、あの大仰な演出がたまらなく嫌になってしまった。アニメの大仰さは先に書いた子供っぽさにも通じていると思う。宮崎アニメも随分子供っぽい(意図してるのだろうが)。

 大仰といえば、声優のセリフまわしも大仰で嫌である。大仰に叫ぶ、大仰に泣く、大仰に笑う。リアルな世界ではあんなに大仰な感情表現しないだろうと思うのだが、とにかく抑揚を極端につける。特におれが苦手なのはアニメ声というか、裏声混じりの高音で極端に音程の上がり下がりをつけるタイプだ(わかるかな)。「なんとかなンですぅ〜」みたいな媚びた嫌らしいセリフまわしだ。しかし、どうやらこれが世の中では好まれるらしく、コンビニの店内放送やら、チェーン店の券売機やらにもあのアニメ声が使われるようになった。これまた、出くわすとげげげげげである。

 あのセリフまわしの大仰さ、絵の動きの大仰さは、実はアニメの絵の退屈さをカバーしているのかもしれない。実写なら、写っている画のあちこちが微妙に動く。しかし、アニメではコストの関係もあって、注目させたいところ以外は動かさない。そういう変化の少なさを、大仰な動きとセリフまわしでカバーしているのではないか。

 しかしまあ、食わず嫌いもいかんなーと思い、時々はアニメを見てみようと挑戦する。そのたびに「やっぱダメだわ」となる。少し前だが、評判のよかった「この世界の片隅で」を見てみた。しかし、開始5分でギブアップした。やっぱ、おれは毛嫌いしているのかなあ。

牛の解体ショーはなぜないのか

 マグロの解体ショーなるものがある。ショーではないが、たとえば、こんなものだ。

 

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 なかなか豪快で、確かに見ていて面白い。専門の業者もいるようだ。

 マグロの解体ショーはあるのに、なぜ牛の解体ショー、あるいは豚の解体ショーはないのだろうか。

 まあ、そんなものグロテスクで見たくない、というのはわかる。ではなぜ牛の解体だとゲロゲロで、マグロの解体だとゲロゲロではないのか。

 ひとつには、魚をさばくのは魚屋なり家庭なりで子供の頃から見慣れているから、という考えはありそうだ。マグロは巨大とはいっても魚で、アジやハマチをさばくのと本質的には変わらない、とまあ、そんな理由だ。

 では、欧米の家庭でウサギをさばくのを見慣れている人は(今はそんな家庭は多くないだろうけど、文化的にはありそうだ)牛の解体に抵抗ないのだろうか。あるいは、日本でも鳥を締める家というのは今でもあって、そういう人たちは牛の解体をどう感じるのだろうか。ちょっと興味が湧く。

 もうひとつの考えは、マグロに比べて、牛の体内は人間に似ており、牛の解体は人間の解体を思わせて気持ち悪い、というものだ。胃だの心臓だの肝臓だのを見るのは、自分たちの死、グロテスクな体の成り立ちを想像させる、というものだ。

 なるほど、これはいかにもありそうだ。最初の見慣れているかどうかというのはもちろん大きく、食肉工場で働く人がいちいちゲロゲロしていては仕事にはならない。しかし、グロテスクさを感じるかどうかの根本には自分たちにどこまで似ているか、近いのかという意識というか捉え方がありそうだ。だから、たいていの人は生花で植物をハサミでチョキチョキやるのを見ても残酷とは思わないのだろう。

自意識過剰の国

 正月の羽田の航空機事故、ニュースを見ていると「全員脱出に海外からも称賛の声」といった類の記事や動画がよく出てくる。確かに、あの状況で全員脱出させたのは素晴らしいと思う。

 一方で、日本は海外からの見られ方をやたらと気にする国だなー、とも思う。

 もっとも、海外といったってコンゴ民共和国も含まなければ、アラブ首長国連邦も含まない。中国もめったに含まない。日本で海外といえば、アメリカかヨーロッパの大国になぜか限られている。

 もしアメリカで同様の事故が起きて全員脱出となったら、「全員脱出に海外からも称賛の声」なんて記事が書かれるだろうか。事故機の乗員なり乗客なりの対応を称賛し、場合によっては「おお、やはり偉大な我がアメリカ」となるだけではないか。アメリカに住んだことないので、知らんけど。

 日本には欧米から褒められるとうれしくなるというか、うれしくなりたいがために欧米からの評価を気にする人が多い。YouTubeなんかを見ていても「日本の◯◯を海外の人に体験させてみた(食べさせてみたとか、見せてみたとか)」という類の動画がたくさんあがっている。あるいは、「日本人は◯◯である」という決めつけのような動画もよく見かける。

 自分はどういう人間であるかとか、他人からどう見られているかとかをやたらと気にすることを自意識過剰と呼ぶ。鏡を見て自分の姿ににやついてばかりいるようなタイプだ。

 日本には日本人であることに自意識過剰な人が多いなー、と思う。そこまで気にしなくていいじゃん、と思うのだが、何かいろいろと歴史的・文化的背景や、見るもの聞くものを通じて受け取るプレッシャーがあるのだろう。

 褒められてうれしがってるばかりではなくて、自分に対する興味の半分くらいでも他国に対して持ってはどうかと思うのだが。

神社仏閣だらけのニッポン

 いきなりだが、日本には神社仏閣が15万8千箇所以上もあるんだそうだ。コンビニの数が5万6千店程度だそうだから、コンビニの3倍近くもある計算になる。

 そんなにあるかな、とも思うのだが、もしかするとおれがコンビニの多い東京に住んでいるからかもしれない。京都なんかはもちろん神社仏閣だらけだし、地方に行くと、大都市ほどコンビニが乱立していないから、まあ、それくらいあるかもな、とも思う。

 この間、住んでいる街を歩いていて、随分と医院が多いな、と気づいた。他のお店と比べて医院は表が地味だからそれほど普段は思わないが、注意して見ると、随分と多い。商店街なんかでは、医院、店、店、店、医院、店、店、医院なんていう並びもあって、そんなに需要があるんだろうか、とも思ったが、まあ、そこそこ儲かるくらいには患者が来るのだろう。

 日本の医院の数は18万くらいで、うち病院が8千、一般診療所(いわゆる町の開業医)が10万4千、歯科診療所が6万8千だそうだ。歯医者が多い。

 医院が18万に対して、神社仏閣が15万8千だから、神社仏閣はなかなか健闘(?)している。日本は神社仏閣だらけの国なのだ。

冤罪はなぜ起きるか

 冤罪にまつわる本を3冊読んだ。

 

 

 

「特捜検察の正体」「冤罪はこうして作られる」ともに、冤罪の原因は共通している。

 

1. 検察は予断に基づいてストーリーを組み立て、押し通す

「落とす」となったら、検察は強引に犯行のストーリーを組み立て、「証拠」(怪しいものも多い)を組み合わせる。客観的な正否を明らかにすることではなく、「有罪にする」ということが目的となってしまう。

 

2. 被疑者は勾留・取調べで肉体的・精神的に追い詰められ、自白してしまう

 検察の被疑者に対する取り調べは容赦ない。ほとんど拷問に近い。被疑者はしだいに肉体的にも精神的にも追い詰められ、苦しみから逃れたいばかりに検察の作った調書に署名してしまう。その心理は、おれのような心の弱い人間にはよくわかる。

 

3. 裁判官は検察の言うことを信じがちである

 同じ司法官僚だからか、裁判官は検察の調書や主張を頭から信じがちである。そこにある齟齬や根拠の薄弱さを見逃してしまう。

 

 日本の刑事裁判における有罪率は99.9%と言われる。もっとも、逮捕された者のうち、不起訴になるものが50%ほどあるから、正確には(逮捕された者のうちではなく)起訴された者のうち、99.9%(ないしは99.8%)が有罪になるということらしい。起訴する検察は確実に有罪にできる事件を選んで起訴しているわけだ。そして、裁判官は検察が言ってるのだから、と信じてしまう。

 その背景にあるのは、官僚の無謬性、つまり、自分たちは絶対に間違いを犯さないという信仰のようなものだ。無謬性といっても、間違いを犯さないよう慎重にことを運ぶというのではなく、自分たちは間違いを犯さない存在だから自分たちのやることは正しいと信じてしまうという、いささか倒錯した考え方である。

 官僚国家ニッポンの恐ろしさ、暗がりを感じる。

 一方で、警察が逮捕したというだけで犯人扱いするメディアやそれと裏表の関係にある大衆の見方にも問題がある。検察官を「ヒーロー」扱いする(昔そんなタイトルのテレビドラマがあったな)捉え方は怖い場所につながっている。