牛の解体ショーはなぜないのか

 マグロの解体ショーなるものがある。ショーではないが、たとえば、こんなものだ。

 

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 なかなか豪快で、確かに見ていて面白い。専門の業者もいるようだ。

 マグロの解体ショーはあるのに、なぜ牛の解体ショー、あるいは豚の解体ショーはないのだろうか。

 まあ、そんなものグロテスクで見たくない、というのはわかる。ではなぜ牛の解体だとゲロゲロで、マグロの解体だとゲロゲロではないのか。

 ひとつには、魚をさばくのは魚屋なり家庭なりで子供の頃から見慣れているから、という考えはありそうだ。マグロは巨大とはいっても魚で、アジやハマチをさばくのと本質的には変わらない、とまあ、そんな理由だ。

 では、欧米の家庭でウサギをさばくのを見慣れている人は(今はそんな家庭は多くないだろうけど、文化的にはありそうだ)牛の解体に抵抗ないのだろうか。あるいは、日本でも鳥を締める家というのは今でもあって、そういう人たちは牛の解体をどう感じるのだろうか。ちょっと興味が湧く。

 もうひとつの考えは、マグロに比べて、牛の体内は人間に似ており、牛の解体は人間の解体を思わせて気持ち悪い、というものだ。胃だの心臓だの肝臓だのを見るのは、自分たちの死、グロテスクな体の成り立ちを想像させる、というものだ。

 なるほど、これはいかにもありそうだ。最初の見慣れているかどうかというのはもちろん大きく、食肉工場で働く人がいちいちゲロゲロしていては仕事にはならない。しかし、グロテスクさを感じるかどうかの根本には自分たちにどこまで似ているか、近いのかという意識というか捉え方がありそうだ。だから、たいていの人は生花で植物をハサミでチョキチョキやるのを見ても残酷とは思わないのだろう。