近所のスーパーに行くと、マグロの解体ショーなるものがあったらしく、さばいたばかりの身を売っていた。ショー自体は見逃したが、「マグロの解体ショー」と聞いただけで「おお!」と血湧き肉躍るものがある。
調べてみると、出張してマグロを解体するという会社が結構あるらしい。
こういうのはマグロだからいいのであって、たとえば:
・豚の解体ショー
などというものがあったら、ゲロゲロである。新郎新婦もにこやかに眺めてはいられないだろう。もう少しスケールを小さくして:
・ニワトリの解体ショー
というのもあまり見たくない。
少なくとも日本では魚を三枚におろすことが家庭でも普通に行われるから、マグロの解体に抵抗がないのかもしれない。つまりは慣れということか。
戦前、戦後くらいの農村ではニワトリを各家で飼って、行事のときなどに締めて鍋などにしていたらしい。では、そういう人たちが:
・ダチョウの解体ショー
を血湧き肉躍って見にくるかというと、さてどうだろう。慣れだけの問題ではないんではないか。
足があるものはどこか己(人間)の内部を連想するから抵抗があるのだろうか。蛇の解体ショーはそもそも蛇が苦手という人が多いから(おれも苦手だ)ダメそうだが、同じく長くて足がない動物でもウナギならさばいているところを普通に見られるから不思議である。
足がないといっても:
・クジラの解体ショー
をやったら、今の時代、シーシェパードが銃を乱射しながらそれこそシェパード並みの走力で飛んできそうだ。おれ自身も、別に捕鯨反対ではないが、ショーとして見てみたいとは思わない。
江戸時代のクジラ解体の図
このあたり、つらつら考えると、動物に対する見方のさまざまな要素が入り混じっていて、そのもやもやとしたところがまた面白いと思うのよね。