痒みの知覚

 おれは体質的にアトピーで、子供の頃からカイカイカイカイと痒がって生きてきた。

 アトピーのひどいときはこっちが痒くなってボリボリ、それが治まるとあっちが痒くなってボリボリ、それが治まるとそっちが痒くなってボリボリ、とまあ、きりがない。

 面白いというか、不思議なのは、同時に全身が痒くなるということはあんまりない。一時に痒みを覚えるのは一箇所かせいぜい二箇所であって、そこの痒みが治まると別の箇所がまた一二箇所痒くなる。どうやら痒みが知覚される箇所というのは限られているらしい。

 例によっての適当な考えだが、神経はおそらく痒みの信号を全身から送ってくるのだろう。しかし、それが痒みと知覚されるのは、脳の処理か何かの関係で、限定されるのだと思う。それでもって、その限定された痒みをボリボリやったりなんだりで治めると堰き止められていた別の痒みが脳の表舞台に現れて「ああ、今度はこっちが痒い」となるのだと思う。

 アトピーだとこの連鎖のキリがなく、実に困ったものである。アトピーというのは一種の神経過敏の状態でもあって、「痒い」という字を見ているだけでどこかが痒くなってくる。

 掻いちゃいかん、というのはよく言われることだが、それはアトピーの痒みの強さ、どうにも辛抱たまらん感じの状態がわからないから言えることではないか。実にもう、どうにもならんものがあって、今日もあちこちおれはボリボリボリボリ。

装置としての宗教

 いきなり何だが、キリスト教の教会というのは装置としてなかなかよくできていると思うのである。

 まず陰影がはっきりしていて、暗い空間に窓からだけ光がつよく差し込む。啓示とまでは言わないが、天あるいは神からの恩寵なり働きかけが光を通じて感じられるようになっている。

 讃美歌は天上の音楽のようにも聞こえ、人を上へと運ぶような響きがある。アメリカのゴスペルなんていうのはいささか強引に神の支配する国に引っ張っていくというか、神の至福による強力な喜びを感じさせる。

 教会の奥には十字架、あるいは十字架にかけられたイエスの姿があって、象徴の力全開で迫ってくる。その前には神父なり牧師なりが立って、神の言葉の代弁者、あるいは解説者として振る舞う。

 教会というのは人をキリスト教のほうに引き込む、あるいは進行を再確認させるような装置としてできていると思うのだ。

 それでは、日本の仏教のお寺がどうかというと、どうも装置としてはキリスト教の教会の出来にはかなわないようだ。

 奥に仏像がどーんと置いてある、なんていうのは教会における十字架やイエス像に似ているけれども、あくまで自分とはかけ離れた「向こうの世界」での姿であって、強く働きかけてくる感じではない。

 ボワーンという鐘の音や木魚のポクポクポク、線香の香りなんていうのはちょっと異世界というか、擬似的に「向こうの世界」を感じさせるようにできてはいて、それはそれでよいものだけれども、キリスト教の教会のようにこちら側に強く働きかけている感じではない。

 そして、坊さんは、神父や牧師のように神の威光を背景にするのではなく、仏様の側を向いて、我々には背を向けている。我々から見えるのは禿頭の後頭部か、それを覆う頭巾だ。おそらくは、仏弟子の代表として師匠に対しているのであって、我々に働きかけるのは説教のときだけである。あの説教がまた義務的なふうというか、決まった「流れ」としてこなしているふうで、働きかけが弱い。そのせいで聞いているこちら側は足の痺れや「この後、何を食うかな」みたいな雑念にとらわれてしまい、なかなか信仰を育てるというふうにはならない。

 別にお寺の悪口を言いたいわけではなくて、ただ、キリスト教圏で教会が今でも日常生活のなかで大きな働きをしているのに対して、日本ではお寺が日常的にはあまり意識されることがないのはなんでかな、と考えているうちに、ふと教会とお寺の装置(仕掛けと言ってもよい)としての違いに思い至っただけである。

 日本のたいがいの人にとって、仏教のお寺は観光で行く場所というだけではないか。法事や葬式ではたいがい向こうから出向いてくれるし。社会における機能が、日本のお寺は小さいな、と思うのである。

ラテンアメリカ小説遍歴 その2

 昨年末以来、ラテンアメリカの小説を読み続けている。1月末に読んだ本を紹介したが、その後に読んだ本を簡単に紹介したい。

 前回の記事はこちら。

 

yinamoto.hatenablog.com

 

 まずはロベルト・ボラーニョの「野生の探偵たち」。

 

 

 

 メキシコとチリ出身の放浪する二人の無名詩人が主人公。小説の中心をなす第二部は、多くの人物のインタビューからなり、彼ら・彼女らの話を通じて、二人の足跡を追う構成になっている。人の人生のさまざまな局面を通じて知る二人の詩人の人生に感慨を覚えた。同時に二人に関わった人々の人生のさまざまなありようも物量として迫ってくる。人生の織物である。

 ガルシア=マルケスの「コレラの時代の愛」(このご時世でつい「コロナの時代の愛」と呼びそうになってしまう)。

 

 

 若い頃に恋に落ちた女性を、五十年以上待ち続けた男と、待たれた女と、その夫の物語。三人の男と女の人生の遍歴だ。ガルシア=マルケスらしい、エピソードにエピソードをたっぷりと塗り重ねて描き上げる油絵のような小説だ。ネタバレになるが、終盤、主人公と年老いた女が結ばれていくプロセスの書きっぷりは見事である。

 カルロス・フエンテスの「澄みわたる大地」。

 

 

 メキシコシティで暮らす人々のストーリー。メフィストフェレスのような悪魔的イメージのイスカ・シエンフエゴスが狂言回しの役をつとめ、没落した旧家の人々、野心満々の企業家、市井の人々、遊興にふける人々など、数多くの登場人物の物語が入り乱れる。後半にはドラマチックな展開を見せ、彼ら・彼女らの生を通じて、大都会メキシコシティの姿が浮かび上がっていく。フエンテスの筆は時に詩的すぎて何を言いたいのかわからないときもあるが、その熱は強い。これを二十代で書いたとは驚きの重厚な小説だ。

「澄みわたる大地」が結構、ヘビーだったので、その次には喜劇的な要素の強い「パンタレオン大尉と女たち」(バルガス=リョサ)を読んだ。

 

 

 主計将校のパンタレオン大尉は軍の性方面のトラブルを抑えるために従軍慰安隊を組織するよう命じられる。生真面目で有能な大尉は見事に従軍慰安隊を組織し、展開し、大成功を収めるが・・・というお話。後半、従軍慰安隊の女性たちと精神的な紐帯を持つに至った大尉の行動と演説は感動的である。バルガス=リョサらしい見事な構成と文章だと感じた。

 ガルシア=マルケスに戻って、自伝「生きて、語り伝える」。

 

 

 ガルシア=マルケスの二十代の頃までが書かれる。「百年の孤独」や「コレラの時代の愛」が案外と実体験に基づいて書かれていることに驚いた。もっとも、お話聞かせてガルシアおじさんであるからして、あちこち話を盛ってるんじゃないか、逆に「百年の孤独」や「コレラの時代の愛」をもとに自伝をつくりあげているんじゃないか、という疑いも捨てきれない。ともあれ、ページをめくるのが楽しかった。

 原題は「Vivir para contarla」。おれはスペイン語ができないが、直訳すると「語るために生きる」ではないか。邦題「生きて、語り伝える」より、お話おじさんガルシア=マルケスらしさが感じられるように思う。

 「生きて、語り伝える」の流れで「百年の孤独」を読んだ。

 

 

 久しぶりに読み直したが、やはり変わらずに面白く、楽しい。マコンドという村を建設し、共に生きたブエンディア家百年の物語。ガルシア=マルケスが次々に繰り出す奇想天外なエピソードにもてあそばれる。おれはやはり、アウレリャノ・ブエンディア大佐が好きだ。そして、ラスト数ページの衝撃!

 あらためて多くの影響を与えた小説だな、とも思う(日本の小説家にも)。文学には詳しくないけれど、二十世紀後半で最も重要な小説なのではないか。

 最後に、ドノソの「夜のみだらな鳥」。これは驚くべき小説である。

 

 

 老婆達と孤児達が暮らす中世そのままのような修道院と、奇形の御曹司「ボーイ」を育てるために作られた奇形の人間の楽園「リンコナーダ」が舞台。エドガー・アラン・ポーの「アッシャー家の崩壊」のような、あるいは江戸川乱歩を百倍したような、ゴシック的でグロテスクで、不思議に魅惑的な世界だ。

 これを読んだ多くの人が「悪夢のような」と形容するんじゃないかと思う。というより、小説の成り立ちが悪夢そのものである。夢では、A→B→Cと出来事の流れがあるとき、A→BあるいはB→Cの流れにはなんらかの脈絡があるが、A→B→Cの全体をつなぐ脈絡はない。この小説も同じで、小さな脈絡がつながってできあがっている。全体として合理的で一貫した世界はない。読み進めるにつれ、状況も、登場人物の位置付けも、経歴も変わってしまう。その、頭がどうにかなってしまいそうな話の連続に身を委ねるのが、なんともコーフン的なのだ。

 悪夢は、見ているときは切迫し、不安である。目を覚ました瞬間にはハアハア息をするような恐ろしさを覚え、そのほんの少し後に悪夢だったのだという安心感を覚える。しばらく経つとコーフン的な世界に自分はいたのだ、あれはコーフン的だったと思う。そういう悪夢の世界に自分の身を置く面白さ、とでもいうか。

 繰り返すが、驚くべき小説である。悪夢に身を委ねたい方はどうぞ。

 今はキューバカブレラ・インファンテの「TTT」を読んでいる。革命直前のハバナの歓楽街を書いた小説だ。ラテンアメリカ小説の遍歴はもうしばらく続きそうである。

スペクタクルな法華経

 「サンスクリット原典現代語訳 法華経」を読んだ。

 

 

 

 「最高の経典」だという評価は聞いていて、どんなもんだろうと思って読んだ。

 驚いた。お釈迦様の眉間からビームは出るわ、天上から花は降るわ、ブラフマー神が光り輝く乗り物で飛んでくるわ、地面からいきなり巨大なストゥーパ(宝塔)が現れて空中に静止するわ、大地が裂けて間から無数の菩薩が登場するわ、如来たちのちょっとした仕草で三千世界が震動するわ、壮大かつスペクタクルなのである。

 聖書もたいがい荒唐無稽だと思ったが、法華経はもっと荒唐無稽である。

 年月や人数などの数字がまたどれも気が遠くなるほど巨大である(「東の方角におけるガンジス川の砂の数に等しい幾百・千・コーティ・ナユタ[億or兆or京 × 万or十万or千億]ものブッダの国土において」とか)。法華経を書いた人は何を思ってこんなに巨大にしたのか、誇大妄想だったんではないかと疑ってしまいたくなるくらいだ。

 こうした荒唐無稽で大仰な表現はおそらく読む者にショックを与えるための演出なんだろう。異化効果というのだろうか。じゃあ、何が本質として書いてあるのかというと、おれは一読しただけではよく理解できなかった。なんでこんなことをくどくど書いてあるのだろう、などと思いながら読み進めた。解説を読んで、ははあ、そういう解釈ができるのか、とちょっとわかった気になった程度であって、我ながら情けない。

 文章は植木雅俊の丁寧な訳もあって、思いのほか、読みやすい。しかし、原文の詩形のゆえか、サンスクリット独特の表現法なのか、著者の癖なのかわからないが、繰り返しがやたらと多く、くどくて、読んでいて方々でひっかかった。まあ、さほど気を入れずに文字を追うだけ、というこちらの読む態度の問題なのかもしれないが。

 抹香くさい経典かと思ったら、大違い。なかなか壮大で派手で、物語的なところも多く、一度読んでみるのもよいと思う。

ラテンアメリカの作家と移住

 昨年末以来、ラテンアメリカの小説をあれやこれやと読み続けている。

 作家たちのプロフィールを読むと、いずれも国外移住がとても多いことに気づく。たとえば、ガルシア=マルケスの場合:

コロンビア(国内を転々)→イタリア(ローマ)→フランス(パリ)→コロンビア→ベネズエラ(カラカス)→キューバ→(この後がよくわからないが、スペイン(バルセロナ)にも住んだことがあるはず)→メキシコ

 という具合。

 ペルー生まれのバルガス=リョサも若い頃にヨーロッパをめぐり、パリではラジオの仕事をしていた(小説では食えなかったかららしいが)。名を成してからはスペインのバルセロナに住んでいたことがある。

 キューバのアレッホ・カルペンティエルはスイスの生まれで、少年時代にパリに移り、キューバに住むようになったのは大学時代からだ。パリに亡命した後、ベネズエラキューバ→フランス(パリ)と移っている。

 メキシコのカルロス・フエンテスは父が外交官だったため、少年時代にパナマエクアドルウルグアイ、ブラジル、アメリカ合衆国、アルゼンチンをめぐっている。高校時代をメキシコで過ごした後、イギリス(ロンドン)に渡る。この後がよくわからないが、メキシコとイギリス、フランス、アメリカ合衆国を行ったり来たりしたらしい(作家であるとともに、文学者として大学で教えたため)。最後はメキシコで亡くなっている。

 チリのホセ・ドノソは若い頃、職と住処を転々としてアルゼンチンにもいたことがあるようだ。大学時代にアメリカ合衆国に留学。その後、メキシコ、アメリカ合衆国ポルトガル、スペインと移り住んで、最後はチリで亡くなっている。

 ロベルト・ボラーニョはチリで生まれて、15歳のとき、メキシコに移住。20歳でチリに帰国した途端、クーデター騒ぎに巻き込まれ、メキシコに戻った。その後、エルサルバドル、フランス、スペインを放浪し、その後の遍歴はよくわからないが、スペインにもっぱら住むようになったようだ。

 ホルヘ・ボルヘスは比較的移住が少ない。アルゼンチンで生まれ育ち、若い頃にスイスとスペインに渡ったが、その後はずっとアルゼンチンで暮らした。

 この、ラテンアメリカの作家たちの度重なる移住は何なのだろうか。

 ラテンアメリカがブラジルを除いて、ほぼスペイン語圏だということもあるのだろう。しかし、フランスやイギリス、アメリカ合衆国にも結構、渡っている。特に若い頃は、勉強するなら欧米(この米はアメリカ合衆国のこと)という認識が、ラテンアメリカでは大きいのだろうか。

 移住という感覚が日本より軽いのかもしれない。あるいは法制度の違いもあるのか。彼らは母国に足りないものがあると感じたとき、それらを手に入れられる(と思う)国があり、そこに移り住むのも比較的容易にできる。と、いうことだろうか。

 日本人の著名な作家で、こんなに移住を繰り返した者はいないのではないか。ぱっと思い出すところでは、夏目漱石森鴎外が若い頃、イギリスあるいはドイツに留学したこと、永井荷風が若い頃に米仏をめぐったことくらいか。あ、金子光晴もパリに住んでいたことがあるか。が、ラテンアメリカの作家たちのように、本格的な移住をした作家はあまりいないように思う。日本語の文法的構造が欧米語とは大きく違うことや、日本がなんだかんだで住みやすいこともあるかもしれない。

 作家たちの移住の多さが、ラテンアメリカ文学が世界性を獲得することに結びついているーーとまで言うと、あまりに慌てものだが、さまざまな居住体験が彼らの作品に影響を与えているのは間違いないだろう。違う風土、国語の生活を体験することの影響は小説世界をつくりあげるうえでなかなか大きいように思う。

百年の孤独 神話、伝説、リアリズム

 ガルシア=マルケスの「百年の孤独」を読んだ。

 ラテンアメリカ文学を代表する小説であり、世界的大ベストセラーでもあって、「ソーセージのように売れた」んだとか。スペイン語で書かれた本のなかでは、聖書を別にすれば、最も出回った本とも聞く。

 おれが通して読むのは3回目だろうか、4回目だろうか。初めて読んだのはもう20年以上前だと思うが、今読んでも変わらずに面白く、衝撃がある。無数のエピソードの詰め合わせのような小説で、よく覚えているものもあれば、あれ、こんな話あったかな、というものもあった。

 

 

 今回、初めて気づいたことがあるので、書いてみる。ネタバレ的要素もあるが、ネタバレしたからといってつまらなくなる小説ではないので、お許しいただきたい。

百年の孤独」は書名の通り、マコンドという村の百年、あるいはその中心的一族ブエンディア家の百年にわたる大河小説である。非常に多くの人物が登場するが、特に大きく扱われる人物に即すと、五つの時代に分かれるように思う。

 

① ホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラ・イグアランの夫婦がマコンドの村を建てていく時代

② ブエンディア家が恋であふれ、ホセ・アルカディオが世界を経めぐり戻ってくる時代

③ アウレリャノ・ブエンディア大佐が反乱と雌伏を繰り返す時代

④ アウレリャノ・セグンドとフェルナンダの夫婦がブエンディア家の主導権を握る時代

⑤ 叔母・甥の関係であるアマランタ・ウルスラとアウレリャノのロマンスと崩壊の時代

 

 20世紀後半の文芸評論家ノースロップ・フライは、文学は以下の流れで発展してきたと説いたそうだ(「批評の解剖」という本で書いたんだそうだが、おれは筒井康隆「文学部 唯野教授」で読んだだけで原著は読んでいない。横着で、申し訳ない)。

 

1. 神話

2. 恋愛小説、冒険小説、伝奇小説

3. 悲劇、叙事詩

4. 喜劇、リアリズム小説

5. 風刺、アイロニィ

 

 そうして、5の次には再び神話に戻るのだそうだ。

百年の孤独」はこの文学の流れをひとつの小説の中でなぞっているように思う。

 ①のホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラ・イグアランが村を建てる時代はいかにも牧歌的で、神話的な荒唐無稽な出来事が起きる。ホセ・アルカディオ・ブエンディアが庭の栗の木に縛り付けられ、風雨にさらされるという神殺しのような話もある。

 ②で活躍する人物は第二世代に移る。レベーカとアマランタがイタリア人をはさんで恋の鞘当てをし、アウレリャノ・ブエンディアがまだ月のものも見ない少女に恋をする。巨根の持ち主ホセ・アルカディオはジプシーとともに村を出て船乗りとして世界中をめぐり、マコンドに戻ってくる。ノースロップ・フライの区分でいえば、「2. 恋愛小説、冒険小説、伝奇小説」の時代である。

 ③のアウレリャノ・ブエンディア大佐の話がおれは一番好きだ。「アウレリャノ・ブエンディア大佐は三十二回も反乱を起こし、そのつど敗北した。十七人の女にそれぞれひとりずつ、計十七人の子供を産ませた(中略)大佐はまた十四回の暗殺と七十三回の伏兵攻撃、一回の銃殺刑の難をまぬかれた。」という文章におれのオトコのコの血が騒ぐ。アウレリャノ・ブエンディア大佐は己の反骨精神に忠実に生き、シーシュポスのように反抗を続ける。英雄の時代であり、「3. 悲劇、叙事詩」の時代である。

 ④のアウレリャノ・セグンドとフェルナンダの夫婦の頃になると、ぐっと話のスケールが小さくなる。マコンドも近代化の時代だ。いろいろととんでもない出来事も起きるのだが、①〜③の時代に比べると身近なというか、我々と地続きの生き方をしている人たちの話のように感じられる。「4. 喜劇、リアリズム小説」「5. 風刺、アイロニィ」の時代である。

 ⑤のアマランタ・ウルスラとアウレリャノのストーリーは、最初、アマランタ・ウルスラがヨーロッパ帰りだったりしてマコンドの現代化がリアリズムをもって書かれるのだが、アマランタとアウレリャノが結ばれるあたりから筆の運びが変わり、アマランタの妊娠からはエンディングに向かって怒涛の展開を見せる。最後の、崩壊する家のなかでアウレリャノが目にするものには深く感銘を受けた。ガルシア=マルケスの筆は、神話に戻った。

 何しろ、いろんなお話が塗りこめられ、多くの人物がからみあい、中にはウルスラ・イグアランのように①、②、③、④の時代を生き抜く人物もいるし、①〜⑤の間には混じり合うところもある。単純化はそうできないかもしれないが、「百年の孤独」は、大きくは神話で始まり、伝説、リアリズムを経て、再び神話へと戻る構造ではないか。ガルシア=マルケスノースロップ・フライの説を意識しながら「百年の孤独」を書いたんではないか、というのがおれの見立てだ。

陰謀論にとらわれる理由

 陰謀論にとらわれる人というのがいて、まわりから見ると「なんで?」と思うのだが、本人はいたって真剣なようである。

 たとえば、アメリカではトランプ前大統領は闇の政府(ディープ・ステート)と戦っていたのだと信じる人たちがいるし、コロナは製薬会社の陰謀だと信じる人たちがいるし、大東亜戦争蒋介石の陰謀だと信じる人たちがいるし、ウクライナでの戦争も陰謀のせいだと信じる人たちがいるようだ。

 人はなぜ陰謀論にはまるのかと考えてみた。3秒で答えが出た。3つある。

 

● 単純化したい

 現代の大きな出来事というのはたいがい複数の要因がからまりあって、相互にひっぱりあいながら起きる。事情は複雑で、そうした様相を描き出すのは大変だし、理解するのは骨が折れる。ところが、陰謀論は「誰々の(あるいは何々の)陰謀だ」と一面的な見方で済んでしまうので、理解が簡単である。スパッと答えが出る(出た気になる)ので、あんまりあれこれ考えずに済むし、気持ちもよい。物事を単純化して理解した気になりたいのだろう。

 もちろん、実相の複雑さを複雑なままに理解することと、単純化して理解した気になることには雲泥の差がある。もっとも、陰謀論にはまる人が物事を単純化したいのか、そもそも頭が単純なのかは議論の余地があるだろう。

 

ロマンがある

 陰謀論というのはたいがいストーリーになっている。筋があって、おまけに陰謀であるからして表にはあまり出てこないことになっていて、秘密めいたところがある。そうした秘密を知ることにはロマンがあるのだろう。

 

● 優越感を味わいたい

 陰謀は隠されている。それを知ると、他の人が知らないことを自分は知ってるのだ!、という優越感を味わえるのだろう。他の人は知らないのではなくて、聞いたとしても馬鹿馬鹿しく思っているだけなのかもしれないが、陰謀論を信じる人は「知らないのだ」と決めてかかってしまう。そうして知っている自分のほうを上と感じる。てっぺんからの風景は気持ちよいのだろう。デタラメでできた山の上に登ったのかもしれないが。

 

 なぜおれにこんなことがわかるかというと、自分の心の中をのぞいてみたからだ。おれもそんなふうに思うかもしれない、というわけだ。おれにも陰謀論を信じる素地はあるのだと思う。ただ、今のところは他の考え方(理性といってもよい)のほうが強いから、陰謀論にははまらずにいる。

 世の中にいろいろと陰謀はあるだろう。しかし、陰謀はいくつもあって引っ張り合いをしているかもしれず、陰謀以外の他の要因との引っ張り合いもおそらくはあり、複数の力が引っ張りあうなかで、大きな出来事というのは動いていく。たったひとつの陰謀で世の中が大きく動くということはまずないだろう。陰謀の存在と、陰謀論の間は随分と離れているのだ。