オリンピックと偽善

 東京オリンピック北京オリンピックも全く見なかった。その前の大会も、どこだったか忘れてしまったが、見なかった。最後に見たのがどの大会の競技だったか、覚えていない。

 おそらく競技を見れば面白く、興奮したのかもしれないが、オリンピックの「平和の祭典」的な虚飾がイヤで、またそれが建前とわかっていながら持て囃されるのがなんともイヤで、見ていない。

 北京の平和の祭典とやらが終わった途端にロシアがウクライナに侵攻した。平和の祭典が世界平和に大して役に立たなかったことがわかる。まあ、オリンピックが終わるまでロシア軍は行動を差し控えたのかも知れず、その程度の効果はあったと考えるべきか。

 コロナ禍で東京オリンピックの延期や中止が取り沙汰される中、強行したい菅首相(当時)が記者会見で「新型コロナいう大きな困難に直面する今だからこそ、世界が一つになれることを、そして、全人類の努力と英知によって、難局を乗り越えていけることを東京から発信したい」と言い出して、驚かせたことがある。この人は真面目に物を考えているのだろうか、とおれは思ったものだ。記者たちもぼんやりしてないで、「オリンピックが今まで世界を一つにしたことがあるんでしょうか? それはどの大会のどのタイミングでしょうか? オリンピックを開いたら、難局を乗り越えたことになるんでしょうか?」とツッコめばよかったのに。

 オリンピックは、昔は知らないが、今となっては世界平和の理念とは関係がない。世界一を決める巨大なイベントということでしかない。オリンピックの虚飾、偽善がおれはイヤでたまらない。

物語の宗教

 少し前に、マーティン・スコセッシ監督の映画「沈黙」を見た。

 

 

 江戸時代初期、キリスト教が禁制になった日本に命懸けで潜入する宣教師の話である。捕まった宣教師は、日本人キリシタンを拷問や死刑から救いたいなら、棄教せよ、と迫られる。自分が棄教しなければ日本人キリシタンは殺される。しかし、棄教することは自分の人生と神を否定することになる。そして、宣教師は人々の罪を背負って磔になったイエスと自分が同じ境遇に置かれていることに思い至る。

 おれはキリスト教徒ではないが、宣教師の心理の揺れ動きがサスペンスとなって迫ってきた。大昔に遠藤周作の原作を読んだ時も、同じような感銘を受けたことを記憶している。

 キリスト教の特徴のひとつは、非常に物語性に富んでいることだと思う。旧約聖書(全部は読んでないが)のいろんな物語もそうだが、新約聖書の、イエスの生誕から、磔刑に至る経緯、最後の晩餐、磔刑を前にした弟子たちのあれこれ、死、復活まで、ストーリーが豊かである。そして、イエス・キリストを受け入れるかどうか、という問いが突きつけられる。少し遠巻きにした見方をするなら、そうした物語を語るうちに人を取り込む「仕掛け」ができているように思う。キリスト教を信ずる人からすると、こういう言い方は不愉快だろうけれども。

 仏教ではこういうことはない。仏教にも説話がいろいろあるけれども、それらはあくまで何かを説明するために作られた寓話である。お釈迦様の生涯はイエスに比べれば穏やかで、まあ、修行時代から悟りを得るあたりまではかなりの起伏があるけれども、旧約聖書やイエスの生涯ほどドラマティックではない。仏説を説かれた後で、「あなたはお釈迦様を受け入れますか」と突きつけられることもない。

 イスラム教はどうなのだろう。ムハンマドにまつわる物語はあるけれども、布教の際、イエスほどにはドラマティックに語られることはないのではないか(よく知らないが)。どちらかというと、生活に関するさまざまな規則がコーランにはいろいろ書かれている印象がある。

 聖書、十字架、教会、讃美歌、説教、宗教画と、キリスト教には信仰を迫る多くの道具が揃っている。葬式や法事の際に、よくわからない漢文棒読みで木魚ポクポク、ときどき鐘がグワーンという日本の仏教とは随分と様相が違う。

ジャマイカの存在感

 世界には存在感のある国というのがあって、大国はもちろんだが、そうではないのに妙に光る国がある。

 ジャマイカもそのひとつだと思う。

 おれくらいの年齢の洋楽好きだと、レゲエやダンスホールが思い浮かぶ。ジミー・クリフボブ・マーレーのようなレジェンドをはじめ、有名ミュージシャンがたくさんいる。

 スポーツ選手なら、もちろん、ウサイン・ボルト。その他にも世界レベルの陸上競技選手を輩出しているし、サッカーの代表チームは1998年のW杯で日本代表を破っている。

 ジャマイカの人口を調べてみると、296万人(2020年)。意外に少ない。横浜市の人口が377万人(2020年)で、ジャマイカ人は横浜の住民より少ない。1998年のW杯日本代表は横浜代表に負けたようなものである。ちょっと違うか。

 横浜より小さい国からあれだけのミュージシャンやスポーツ選手が出ている。いったい何があるのだろう、と思う。イギリスやアメリカとの言語のつながり、文化的なつながり、移民の関係なんかもあるのだろうか。

 逆に意外と人口の多い国にはたとえばインドネシアがある。人口2億7千万人で日本の2倍以上だ。ジャマイカの100倍くらいある。その割には世界的な有名人が少ないように思う。インドネシアの中だけでいろいろ完結しているのだろうか。あるいは言語の問題か。

 有名人の輩出が必ずしも人口に由来するわけでもないだろうけど、ジャマイカの光り具合はちょっと特別な感じがするのだ。おれが洋楽ファンだからかな。

「コレラの時代の愛」 エピソードを塗り込める

 ガルシア=マルケスの小説「コレラの時代の愛」を読んだ。

 

 

 若い頃の激しい恋心を50年にわたって抱き続けた男と、抱き続けられた女、その夫の3人を中心にした物語だ。面白い。

 ガルシア=マルケスというと「百年の孤独」が有名だが、ああいう魔術的リアリズム、つまりありそうもないことを普通にあることとして描く感覚はない(まあ、50年も恋心を抱き続けて老人になってその成就を図る、というのもありそうもないことをだけど)。

 しかし、読んでいるといかにもガルシア=マルケスらしい濃密な文章世界に取り込まれる。「百年の孤独」もそうだが、とにかく大量のエピソードが盛り込まれるのだ。一文、二文程度のエピソードが延々と続く。

 今、適当に本を開いて抜書きしてみる。

 

充実した新しい生活を送る中で、フェルミーナ・ダーサは公的な場で何度かフロレンティーノ・アリーサを見かけたが、会社での彼の地位が上昇するにつれて会う機会も多くなった。そのうち、会っても別に身構えることもなくなり、ほかのことに気をとられて何度か挨拶するのを忘れたことさえあった。仕事の話がでたときは、C.F.C.で慎重ではあるが一歩一歩着実に階段をのぼっていく彼のことがいつも話題になるので、うわさはしょっちゅう耳にした。

 

 たかだかこのくらいの長さの文なのだが、これだけのエピソードが盛り込まれている。

 

フェルミーナ・ダーサの新しい生活は充実している

フェルミーナ・ダーサは公的な場で何度かフロレンティーノ・アリーサを見かけた

・フロレンティーノ・アリーサは会社での地位が上昇している

フェルミーナ・ダーサはフロレンティーノ・アリーサに会っても身構えることがなくなった

フェルミーナ・ダーサはフロレンティーノ・アリーサに挨拶するのを忘れることがあった

・フロレンティーノ・アリーサは一歩一歩着実に出世の階段をのぼっている

・フロレンティーノ・アリーサの出世がいつも話題になっている

フェルミーナ・ダーサはフロレンティーノ・アリーサのうわさをしょっちゅう耳にしている

 

 この調子で、500ページほどの小説の中にエピソードが大量に塗り込められている。言い換えるなら、大量のエピソードが集積して、小説が成り立っているのだ。

 今、「塗り込められている」と書いたが、ガルシア=マルケスの小説は油絵に似ていると思う。油絵は絵の具を塗って乾いた後、さらにその上に絵の具を塗り重ねることができる。画家によっては何重にも絵の具を塗り重ねて、下のほうで塗った絵の具が隠れてしまうこともある。

 ガルシア=マルケスも、エピソードを絵の具のようにして、小説というカンヴァスのに塗り、さらに塗り、その上にさらに塗り重ねて一枚の小説を仕上げている。

 よくまあ、これだけのエピソードを次から次へと書けるものだと感心してしまう。ガルシア=マルケスはとにかくどんどんお話、それも人を惹きつける面白いお話を思いつく人なのだろう。

「お話聞かせて、ガルシアおじさん」というフレーズを思いついた。

酒と小説

 ラテンアメリカの小説の旅は続いていて、今はガルシア=マルケスの「コレラの時代の愛」を読んでいる。

 ひとつ発見したのだが、小説をその土地の酒を飲みながら読むと、ムードが出て楽しい。

 きっかけは、メキシコを舞台にしたボラーニョの「野生の探偵たち」を読んだことだ。

 

 

 

 小説の中にメスカルという酒が出てきて、調べてみると、テキーラに似た酒であるらしい。ちょっと興味を持って近くの洋酒屋で探したのだが、なかった。代わりにテキーラを買ってきた。

 おれは、小説を読んでるとき、日常生活の中でもなんとなくそのムードが続く。テキーラを飲むと、「野生の探偵たち」のムードが深まる感じがした。

 続いて、ガルシア=マルケスの「コレラの時代の愛」を読み始めた。コロンビア出身の作家で、コロンビアが舞台の小説だから、コロンビアの酒を探してみると、アグアルディエンテという酒があった。通販で取り寄せた。

 飲むと、甘い(サトウキビが原料だそうだ)。飲みながら「コレラの時代の愛」を読むと、アルシア=マルケスの小説の濃密な感じに合って、心地がよくなった(まあ、おれは酒を飲むとたいがい心地がよくなるんだが)。

 小説を読むとき、舞台となる酒を飲みながら、というのはなかなか気分が高まってよいかもしれない。

 たとえば、マルセル・プルーストを読みながら、ワインかブランデーを飲む(読んだことないけど)。フォークナーを読みながら、バーボンを飲む(読んだことないけど)。チャンドラーを読みながら、スコッチを飲む(読んだのは随分昔だけど)。谷崎潤一郎を読みながら、日本酒を飲む。少なくとも後の2つは間違いなく合いそうだ。

 もっとも、カフカを読みながらアブサンを飲んだり、ドストエフスキーを読みながらウォッカを飲むと悪酔いしそうだ。まあ、カフカドストエフスキーは小説自体が悪酔いみたいなものではあるけど。

 お酒が好きな方にはおすすめである。

ボラーニョ「野生の探偵たち」 人生の織物

 相変わらずラテンアメリカの小説を読み続けている。ロベルト・ボラーニョの「野生の探偵たち」を読み終えた。

 

 

 

 三部構成になっている。

 第一部「メキシコに消えたメキシコ人たち」は1975年の話で、17歳の詩人ガルシア=マデーロ君の日記として書かれる。メキシコDFで若い詩人、芸術家の間で繰り広げられる物語だ。ガルシア=マデーロ君はウルセス・リマ、アルトゥーロ・ベラーノが主導する詩人集団「はらわたリアリスト」に加わり、ビートニクな毎日を送る。青春小説である。

 第二部「野生の探偵たち」は1976年から1996年までで、ウルセス・リマ、アルトゥーロ・ベラーノと交錯した53人のインタビュー。

 第三部「ソノラ砂漠」は1976年の話。詩人たちが、メキシコ北部の砂漠に消えた「はらわたリアリストの母」セサレア・ティナヘーロを探す。第一部と同じく、ガルシア=マデーロ君の日記として書かれる。

 一番面白いのは第二部だ。さまざまな人物のインタビューを通して、ウルセス・リマ、アルトゥーロ・ベラーノの放浪の旅が見えてくる。彼らはメキシコ、フランス、スペイン、イスラエルオーストリアニカラグア、アフリカ各地などを遍歴する。

 インタビューの中でウルセス・リマとアルトゥーロ・ベラーノの行動がたっぷり語られることもあれば、ほんの少し垣間見えるだけのこともある。インタビューされる人たちはそれぞれ自分の人生のある部分を語り、その中にウルセス・リマとアルトゥーロ・ベラーノが(時に多く、時に少なく)登場する。逆にいうと、ウルセス・リマとアルトゥーロ・ベラーノを軸としながら、さまざまな人生のストーリーが語られる。後半に進むにつれ、その傾向は強くなり、短編小説の集まりみたいになっていく。ウルセス・リマとアルトゥーロ・ベラーノの人生を縦糸に、インタビューされる人たちの人生を横糸にして、織物が編まれていくかのようだ(縦糸が二本では織物にならないけれど)。

 インタビューを読み進めるにつれ、ふたりの放浪詩人の人生に感興を覚える。そして、ウルセス・リマとアルトゥーロ・ベラーノの放浪の始まりである第三部「ソノラ砂漠」読むと、ふたりの人生にまた少し別の角度からの光が当てられたように感じる。よく計算された構成だと思う。

 上下巻合わせて800ページだから、長い。しかし、中心となる第二部がその大部分を占め、さまざまな人生の側面が語られるから、次へ次へと読ませる。これから読まれる方は、インタビューされる人々のいろいろな人生を経験するつもりで読んでいけばよいと思う。

ラテンアメリカ小説遍歴

 しばらく小説はあまり読んでいなかったのだが、年末年始にガルシア・マルケスの本を何冊か読んだら、自分のなかでラテンアメリカ小説ブームとなってしまった。

 最初に、読みさしになっていたガルシア・マルケスの「予告された殺人の記録」を読んだ。前に読み始めたときはなんとなくノレず、最初のほうだけでやめてしまったのだが、あらためて読むと、中盤以降が面白く、あれよあれよ的な展開で、最後のクライマックスはいかにもガルシア・マルケスらしい筆力で唸った。

 

 

 続いて、同じガルシア・マルケスの「物語の作り方」。ガルシア・マルケスが中心となってキューバで開いたワークショップの記録。若いシナリオライターや映画監督たちを集めて30分のテレビドラマのストーリーをワイワイ一緒につくるという内容だ。みんなでアイデアを出し合うのだが、ガルシア・マルケスがアイデアを出すとストーリーが途端に生き始める。その様が面白く、またガルシア・マルケスのユーモアあふれる人柄が感じられて、よい読書体験だった。

 

 

 続いて、バルガス・リョサの小説「密林の語り部」。ペルーのリマとアマゾンを舞台に、ユダヤ人の青年が未開のインディオの部族の語り部へと転生する様が描かれている。語り部が語る部族の神話的物語とリアリスティックな描写が交互に書かれ、ミステリアスさとサスペンスがある。バルガス・リョサを読むのは初めてだったのだが、望外によかった。

 

 

 これも読みさしになっていたガルシア・マルケスの中編「エレンディラ」。いやー、参った。面白すぎる。祖母に荒野で娼婦として稼がせられるエレンディラのお話なのだが、お伽話的な描写で一気読みした。

 

 

 ガルシア・マルケスづいたのとバルガス・リョサが面白かったので、その名も「ラテンアメリカ文学入門」を読み、いろんな作家を知った。よくまとまっていて、あれこれ読みたくなった。

 

 

 「ラテンアメリカ文学入門」で知ったアレッホ・カルペンティエルの「失われた足跡」。ニューヨークらしき都会からアマゾンの密林を旅した男の物語。うーん、一文が長くて、いわゆる関係代名詞をそのまま訳したような訳文が苦しかった。カルペンティエルの傑作らしいのだが、心理描写が多くて、ちょっとおれにはつらかったな。密林のインディオの暮らしに安息を覚えながら、西洋音楽の作曲という西洋ど真ん中の精神活動をやっているのがなんだか不自然でもある。

 

 

 カルペンティエル再挑戦、というわけでもないのだけど、「この世の王国」。19世紀のハイチの独立闘争が舞台。人間がなんの不思議もなくいきなりイグアナになったり虫になったり鵞鳥になったりとラテンアメリカ文学魔術的リアリズム全開で、満足した。訳文も読みやすい。

 

 

 バルガス・リョサに戻って「緑の家」。5つのストーリーの断片が時間軸もいろいろにまぜこぜになる。語り口も断片によっていろいろ。「あれ? このストーリーはどこに当てはまるのだろう、こいつは誰だっけ」となることもしばしばだが、アマゾンとアンデスに生きるさまざまな人物の人生がだんだんと浮かび上がってきて、それを追うのが面白く、先へ先へと進ませる。しかし、ちょっと読みにくく、長かったかな。

 

 

 

 今はボラーニョの「野生の探偵たち」を読んでいる。ガルシア・マルケスの本も四冊ほど残っていて、まだしばらくラテンアメリカ小説ブームは続きそうだ。

 おれはあんまり読むスピードが早いほうではないのだが、こうやって見てみると1ヶ月ほどの間に結構な量を読んだな。おそらく日本の小説でこんなに立て続けに読みたくなることはないだろう。なぜだろう。ラテンアメリカがおれにとって探検の楽しい異世界だからかな。