物語の宗教

 少し前に、マーティン・スコセッシ監督の映画「沈黙」を見た。

 

 

 江戸時代初期、キリスト教が禁制になった日本に命懸けで潜入する宣教師の話である。捕まった宣教師は、日本人キリシタンを拷問や死刑から救いたいなら、棄教せよ、と迫られる。自分が棄教しなければ日本人キリシタンは殺される。しかし、棄教することは自分の人生と神を否定することになる。そして、宣教師は人々の罪を背負って磔になったイエスと自分が同じ境遇に置かれていることに思い至る。

 おれはキリスト教徒ではないが、宣教師の心理の揺れ動きがサスペンスとなって迫ってきた。大昔に遠藤周作の原作を読んだ時も、同じような感銘を受けたことを記憶している。

 キリスト教の特徴のひとつは、非常に物語性に富んでいることだと思う。旧約聖書(全部は読んでないが)のいろんな物語もそうだが、新約聖書の、イエスの生誕から、磔刑に至る経緯、最後の晩餐、磔刑を前にした弟子たちのあれこれ、死、復活まで、ストーリーが豊かである。そして、イエス・キリストを受け入れるかどうか、という問いが突きつけられる。少し遠巻きにした見方をするなら、そうした物語を語るうちに人を取り込む「仕掛け」ができているように思う。キリスト教を信ずる人からすると、こういう言い方は不愉快だろうけれども。

 仏教ではこういうことはない。仏教にも説話がいろいろあるけれども、それらはあくまで何かを説明するために作られた寓話である。お釈迦様の生涯はイエスに比べれば穏やかで、まあ、修行時代から悟りを得るあたりまではかなりの起伏があるけれども、旧約聖書やイエスの生涯ほどドラマティックではない。仏説を説かれた後で、「あなたはお釈迦様を受け入れますか」と突きつけられることもない。

 イスラム教はどうなのだろう。ムハンマドにまつわる物語はあるけれども、布教の際、イエスほどにはドラマティックに語られることはないのではないか(よく知らないが)。どちらかというと、生活に関するさまざまな規則がコーランにはいろいろ書かれている印象がある。

 聖書、十字架、教会、讃美歌、説教、宗教画と、キリスト教には信仰を迫る多くの道具が揃っている。葬式や法事の際に、よくわからない漢文棒読みで木魚ポクポク、ときどき鐘がグワーンという日本の仏教とは随分と様相が違う。