わたしの漠然とした印象なのだが、キリスト教の広い意味での布教や、改宗するしないという話になると、神を受け入れるか受け入れないか、スルドい切所に人は立たされるようである。
そうなると人は、なかなか「そうねえ、アハハハ」などと笑って誤魔化すことができない。
別にいい悪いという話をしているわけではなくて、そういう特徴がキリスト教にはあるようだ。
一方、仏教のほうでは――といっても、わたしは、日本の「なれの果て」と言いたくなるような仏教くらいしか知らないのだが――あまり、受け入れるか受け入れないかという話はないようである。
「アナタハ〜、観音様ヲ〜、信ジマスカ?」などと、片言の日本語でスルドい質問を投げかけられる、なんてことはない。
これはどういうことだろう。
日本に、たとえ葬式仏教であれ、仏教がすでに浸透しており、キリスト教は少数派だからだろうか。
しかし、キリスト教が浸透している国でも、無神論や軽信を含めれば、「受け入れる/受け入れない」という話はありそうである。
例によって、海外での宗教にまつわる直接体験なんて特になく、映画や小説や、漏れ聞く話なんかの漠然とした印象で書いている。
「受け入れる/受け入れない」という話は、広がり方(広め方)、信仰の形、儀式、聖典(聖書、仏典)の内容――キリスト教と仏教の根本的なところに関わっている気もする。
ちょっと話は変わるが、渋谷に行くと、キリスト教のどういう宗派なのか、いきなりクルマの拡声器から大音響で「悔い改めなさい!」と脅かされることがある。
ああいうの、仏教の側でもやったらどうか。
クルマの拡声器から、奇妙に人間離れした声が告げる。
「諦めなさい!」
でもって、ハチ公前で全員諦めてしまうのである。
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「今日の嘘八百」
嘘五百五十 東大寺の大仏様の手の意味は、